気がつけば、ずるずると頭の位置を下げていった千鶴の頭は小枝子の膝の上に合った。
退ける気も起きず、その上のほうで本を持ちあげて読書。
ほのかはまた姿を消しては顔を見せにくる。
時に服に葉をつけて、時に香ばしい香りを漂わせて。
しばらくして、分厚い専門書のようなものを持って、ソファの後ろに小枝子と背中合わせにもくもくとにらめっこを始めた。
好奇心で彼女の背後から顔を出して本文をのぞいてみたものの、確かにこれは解読不明の文章。
(なんか怖い写真付いてた!!)
すぐに真っ青な顔で目をそらした。深入りしてはいけない領域だと思った。
気にするな。気にしちゃいけない。
ひたすらに小説のページを進めていく。
少女小説や少女漫画ばかりつみあげられて、その中から一番新しそうだと思ったものから手をつけていった。
漫画をゆっくり読めるのは幸せだ。
小説だって、わからない文字に触れるたび、新しい知識が入っていく気がする。
ほのかがポットに紅茶を作り置きしておいてくれたので、それをはしやすめに球に飲んだりもする。まるで漫画喫茶に来ているようだ。
パソコンもありますので暇だったらどうぞ、と先ほど告げられたので、尚更。
レースカーテンから洩れる光は、ゆっくりと明るさを変えていく。
そんな変化を楽しむ余裕など、今までなかった。
鳥のさえずりも、耳を傾けもしなかった。自分の悲鳴にさえ耳をふさいで生きてきたから。
つまんない生き方をしてきたから。
だって、お母さんとあの子と失って、どうやって楽しい生き方ができるっていうの? 小枝子にはわからない。
わから、なかった。
暫くして、ほのかが支度するようにと言って立ち上がった。
ああ、昨日言ってた洋館に向かうのだと理解した小枝子はあわてて千鶴を退け、自室に戻った。
そこには、追い出されたことを付きつけられるかのように、叔母の家からの段ボールがあった。思わず苦笑。
大切なアルバムに、捨てられない子供服。一緒に読んでいた本に、続きを買うはずだった漫画本。
すべて、部屋の奥のほうにしまっていたのに、きれいに並んで……。
「……なんで……いまさら」
きらめきだけをちらつかせないでほしい。
もう二度と手に入れられないくせに。なんで。
「……泣きそう」
そう言って無理に笑う。それでも涙があふれる。
「なんでよお……なんで……っ」
嗚咽の音が、部屋に響く。
見知らぬアルバム。見なきゃいいのに、手が勝手にそれを開いていた。
「なによ……これえ」
日記を兼ねた、母の綴ったアルバムだった。
楽しい出来事、悲しかった出来事。そして二人の成長。
どうなっていくのかな? なんて問いかけは、今の小枝子にはきつすぎた。
きっと彼女が想定していた姿には、成長できてない。誰も売りをするような娘なんて望んで育てない。
むしろ、突き放すし嫌いになる。ああもう、見放されたから、あの子は目を覚まさないの?
(あたしが悪いの? でもお金を工面するにはそれしかなかったんだもん……いいわけでもいい……死んでほしくなかった……!!)
父親からの連絡は、一向に来なかったし、頼れるのはおのれひとり。この身だけ。
このアルバムに、写真が増えることはない。
そう思うとさらに涙が止まらなくて。
ああもう、何で泣いてるのかさえ分からないぐらい、どんどんどんどん……いつになれば止まるのか。
大丈夫。誰も見ていない。
一人で思う存分泣いてやろう。
今までの辛いものから生まれた感情全部空っぽにしよう。一区切り。
また、あの子の命を守るために。小枝子は声をあげて泣いた。
ほのかたちは、小枝子が泣きやむまで現れることはなかった。
あの子は無邪気で明るい子。いつだって、にっこにこ。
「お姉ちゃんみてえっ!」
「だめよー、走っちゃ。転ぶよ!」
「転ばないもん! ぼっ……うえええええ!! いたああい!!」
「ほら、もう」
小枝子は転んだあの子―弟の啓人の頭をなでた。ぐずりながら、啓人は大人しくなっていく。
「お花ぐちゃぐちゃになっちゃったあ……」
「あ、かわいい綺麗なピンク」
「うん、すごい綺麗だったからお姉ちゃんにあげたかったの。それで、なのにねなのに……」
また、啓人が泣きそうな顔をする。だから小枝子は抱きしめてあげた。
「いいの。あたしのために啓人が怪我しちゃ意味ないでしょ?」
「またおはなさがしてくる!」
「啓人! 膝……っ!!」
「へーきだよっ」
ぴょん、とは寝てまた啓人は草むらにもぐってしまった。
そう、ここは河原。別にきれいでも何でもない、どこにでもある河原。
夏場にプールを行く余裕がない小枝子と啓人は姉弟そろってここで遊んでいた。
保育所で日中はちゃんとプールに入れてもらえたから、別にそれで二人は満足していた。
ただ、遊びたい感情は満足しなかった。だから。
たとえ汚くても、家に帰ってシャワーを浴びればすっきりした。
くたくたになるまではしゃいで遊んで……いえに帰って苦笑いする母親に抱きついて彼女まで汚して、みんなで眠った。
なんでだろう。
幸せな夢を見ているのに、夢だと気が付いているからなのか、せつない。
「啓人」
手を伸ばして彼の名前を呼ぶ。
「啓人っ啓人!!」
啓人は一向に振り向かない。ただ、たくさんの花びらが小枝子に向かって飛んできただけ。
彼は、お花畑に行ってしまった。
小枝子といるより断然楽しいから、もう、帰ってこないのだ。
頭ががんがんする。体を動かさないまま、目で時計の針を見た。
朝の6時。もう少し休んでいても、問題ないだろう。
それよりも、気になるのはここがどこかということ。
明らかに、昨日の豪邸とは別の場所だった。
だって、カーテンを引けば森が見えたから。小川の流れる音も聞こえる。
ここは、どこ。
ぐったりとした気疲れから、それを確かめるためにうろつく気さえわかない。
ただ、豪邸に合った段ボールが室内に積まれていたので、ここはほのかたちが普段住んでいる場所だということは理解できた。
丸っこい文字で、起きたら携帯ならせ、と書かれている。たぶん千鶴が描いたものだろう。
なんかよくわからない、下手糞なウサギまで描き添えてある。
小枝子はしばらくベッドの中で泳ぎながら、頭を落ち着かせる。
ことはあっという間に進んでいった。転校すら、あっけなかった。
学校は今日はないらしい。あるならもっと早く呼ばれているし、何より今日は土曜日だ。
別に体験入学や顔見せ程度に見学に出掛けてもおかしくはないのだけれど、その予定もないらしい。
今頃、学園で部活動に入っている生徒が、朝練に励んでいるだろうことが容易に想像できる。
その光景を、今度からは小枝子は見る。
それだけでも、大きな変化。これからも、見ながらゆっくり過ごしてい行くのかもしれない。
ピンチヒッターを、小枝子がしなくてもいいような能力の部員ばかりがひしめいているのだろう。
(お腹は減ったかも)
気分も安定してきたので携帯を鳴らした。
「小枝子!」
「早ぁ!!」
なったのは、扉の前だった。
そしてすぐさま開け放たれて抱きついてきそうな勢いで千鶴がやってきた。
「……何でそこに」
「夜中にトイレとか、案内できるようにここで寝てた」
「眼の下にクマがあるけど」
「昨日寝だめしたから……はふ……んー……」
(めちゃくや寝むそうだけど)
気付かないふりをしたほうがいいのだろう。
千鶴の頭を軽くなでて、小枝子は「ありがとう」とだけつぶやいた。
とたん、千鶴は満足げに笑う。そして小枝子に朝食を食べるテラスまでの道を案内してくれた。
終始千鶴は機嫌がよく、時々眠気からか躓きかけていた。
中を歩いているうちに、年季の入った建物だなあ、と小枝子は思った。
壁は補強の跡がみられ、あの豪邸から見ればあまりきれいではないと言える。
それでも、普通の一軒家と比べれば、十分豪勢な作りだけれども。
そこらじゅうに、絵画や花瓶が置かれている。どれもこれも、古そうなもの。
絵画は、全部同じ女性を描いてあった。
(てかなんでほのかさんばっかなの? 絵画モデル)
ナルシストなのだろうか。筆のタッチもどれもさほど変わらない。
でもまあ、ほのかは写真よりも絵画の世界のほうが似合うけれど。
「あ、炊きたてのパンの香り」
「姉さんのチョココロネは、すごいおいしいんだ。たぶんそれだな」
「チョココロネ! あたしも好き……!!」
「姉さんはパンも焼けるんだぞ」
えへへ、と千鶴がなぜかてれる。
テラスにつくと、森の空気が肺になだれ込んできた。しばらく味わっていない空気だった。
椅子も机も木造で、それが直に気持ち良さをプラスさせた。
そこに焼きたてのチョココロネ。クロワッサンにマーブルパン……。そして紅茶が三種類ほど。
ほのかの姿は、すでにその場に合った。目が合うと、口元だけ微笑んで席に座るよう促した。
「たくさん食べていいんだからなっ」
「千鶴さんはほどほどにしましょうね」
「……えー……」
「えーじゃないでしょう? いつでもあなたは私の焼いたパンが食べれるんですからがっつく必要もないでしょうに。第一胃袋小さいの、理解してます?」
「……してる」
「じゃあ、わかりますよね?」
「けど……美味しそうだから」
不満げに軽くほほを膨らませる千鶴。
「小枝子だってずっと食べていいんだからな」
本当、彼はどこをどうして小枝子を気に行ったのだろうか。
ほのかも仕事とは言っていたけれど、どうも二人は小枝子にそのまま居座るよう勧めているように思える。
そこまでして小枝子と一緒にいて、何か利点があるのだろうか。
損得で考えるのは小枝子の悪い癖だけれど、ここまで理由が不明だと、気になって仕方がない。
「いただきます」
千鶴の言葉に、あわてて小枝子を手を合わせてパンをかじった。まずはお勧めのチョココロネから。
甘さ控えめのチョコレートが、口の中に広がる。高級チョコ屋の試食で食べたような味。
つまりは食べ慣れない、でもおいしい味。
ゆっくりゆっくり味わって、朝食を平らげた。途中でハムエッグも出てきて、それも美味しく頂いた。
紅茶も三種類全部飲んでしまった。
幸せ。
小枝子の口元はふにゃりと緩んでいた。周りの綺麗な風景のせいだ、と自分に言い聞かせた。
幸せになじんではいけない。なじんでしまえば終わりが来たときに度っと悲しみが押し寄せてくるから。
でも、たまには忘れたい。自分に課せられた役目も、周りの自分への扱いも。何もかも忘れて普通のふりをしたい。
どこにでもいる、だれかでありたい。それがずっと願ってきた夢の一つだ。
こうやってゆっくりお茶を楽しんでいると、まるで木々の一つになったような感覚を得る。
木々のかすれる音は、とても気持ちいい。
パンを並べてあった容器をほのかが片付けていく。
残ったお茶をカップに注いで、カラになったティーポットもトレーに乗せる。
相変わらず、重そうなのに軽々と運んで行く。
それを気にを止めない様子で千鶴は紅茶をすすってる。
さっきまではパンしか口にしていなかったから、きっとさめるのを待っていたのだろう。
冰をぶち込めばいいのに、と小枝子は思った。でも口に出さない。
千鶴が紅茶を飲み終えるのを待って、小枝子は声を上げた。
「ねえ」
「……何だ?」
「ここは一体どこなの? たぶん、あなたたちが普段住んでる場所なのよね?」
「そうだが。……場所は、俺は詳しくは知らない。
郵便物は実家に届いたのを姉さんが運んでくるから、住所もわからない。でもそれで困ったことはない」
「へえ」
「空気もきれいで、うるさくもない。ゆっくり日々が送れるし俺は気に入ってる。小枝子はどうだ? 嫌いか?
嫌いなら、おれもそっちについてどこかへ動く」
「そんなことしなくていいわよ」
一瞬、千鶴が悲しそうな顔をした気がした。
「別に、あたしは自然が嫌いじゃないし、部屋も結構広くて家具もそろってて不満はないの。だけど、やっぱりどこかは気になるじゃない?」
「そうだな……ああ、でもすぐに街へは行けるから。姐さん運転免許持ってるし、運転手を呼ぶこともできるから。10分もかからずにいける」
(街から10分でこんな山中に来れるなんて、知らなかった)
普段ハイキングなんてしないから、当然なのかもしれないけれど。
小枝子はその情報を、初めて耳にした。今まで10分ばかり街を歩いたって、タクシーで走ったって、やっぱりまだネオン街だとかビルだらけだった覚えがある。
ふとテラスから洋館を見上げる。クリーム色の、少し古風な建物。レンガでできた花壇には、ヒマワリが咲いていた。
「何も気にしなくていい。ここが安全なのは長年住んでる俺が保証する。うそはついていないし、本当に安全だ」
「いや、危ないとかそういうことは考えてないの。
確かに気温は変わんないし、部屋にあるものも、高級そうではあるけれど、確かに日本のそれだし、さっきほのかさん朝刊読んでたから、新聞が来る程度の距離だとは思ってたし」
ぶっちゃけ住めればどこで良い。あの家に突き返されないなら、それで。
アイツからのメールは、無視してやった。戻ることになったらと思うと、怖くて仕方がないけれど、忙しかったのよと笑って言ってやろう。
どうせあの馬鹿は、ヤれば機嫌を直すだろうし。
考えるだけで気分が悪くなる。でも顔には出さない。出せば千鶴がまた心配しだすから。
あいつらを思い出すと、千鶴がかわいくして仕方なくてしょうHがなくなる。中3なんて盛りまっ盛りなのにピュアピュアで。
好意を持っているのは確かっぽいのに、何もしてこない。
それが当たり前なのかもしれないけれど、さっさと脱がせてくるような下種ばかりが、小枝子に群がってきた。
群がるように仕組んでたのだから、当然。
好き好んででは、なかったけれど。思い出すだけで自己嫌悪。
まだまだ若いのに、ソッチの経験だけ豊富で肝心の普通の経験が足りない。
それって致命的じゃないのだろうか。どうすれば仲良しグループに混ざれるのか、それすらわからない。いつの間に知り合うものなの?
タイミングって何よ。気がついたらみんなくっつてた。はぶられてる子と、体育はくんだ。自分もある種のはぶられ者だったし、別に苦ではなかった。
体育の授業での相手なんて誰でもよかった。運動神経が悪い子でも、別に。
だれとやったって、フォローできるだけの運動神経はあった。それは、自慢できるけれど……。
「なあ」
千鶴の声に、考え込むのをやめる。
目の前には、どこかのカタログが拡げられていた。色々な家具が載っている。
それらの商品の値段を見て、絶句した。高すぎる。
だけど、きっと二人のことだから小枝子にこれらを選ばせる気なのだろう。
「なあに?」
「小枝子はどんな家具がほしい?」
ほら、やっぱり。
ゆっくりとページをめくりながら、千鶴は小首をかしげる。
「これとか、かわいいと思う」
(値段はかわいくないけど! クッション一つで五万とか何それ……)
にこにこにこ。
千鶴はやっぱり幸せそうに笑っている。
「んー……」
「気に入らないか?」
「別に、備え付けので足りてるし」
嘘は言ってない。
もともとベッドも本棚(中には今月号の雑誌がいろいろ入っていた。後は人気の文庫本や漫画)もあったし小さなライトも洋服ダンスもあった。
クッションだって、すでに3つあったはずだ。
「これ、俺小枝子とお揃いで持ちたい」
ちょっぴり恥ずかしげに、彼が指差した先。
(ウサギのぬいぐるみ……)
やっぱり少女趣味なのか。まあ、外見には合うけれども。
パンクロックな恰好されても周囲も反応に困るだろう。小枝子だってそんな姿見たくない。
「これは1万だから……」
安いぞ、といいたげな千鶴の表情。
「これだけ、ね?」
顔色をうかがうような表情を一気に消して千鶴が笑った。
「本当か? 色は何色? 何色がいい? ピンクと水色と黄色があるんだ!」
「うさぎだし、ピンクで」
ふと、視線をずらすとほのかが千鶴のほうを見て満足げに笑っていた。
手にはジンジャークッキーの包みを持っている。それを開き、1枚かじりながら水晶を持って何かブツブツ言っている。
何をしてるのだか、不明。
「ピンクな! 届いたら帽子つけような! そしたら世界で二つだけのぬいぐるみになるんだあ」
(ああもう、そんなにうれしそうにされるとこっちまでにやけちゃうじゃないの)
仕事仕事仕事。これは仕事です。仕事なんだってば。
小枝子は軽く頭を振って、すぐ元の表情を作った。千鶴はカタログに夢中で気が付いていないようだった。
「これもかわいいなー」
「ねえ、千鶴」
「なんだ? 何かほしいものがあるのか?」
「……花瓶、一ついいかな、なんて……」
もにょもにょとした口調で小枝子は言った。
あの子の部屋の花瓶は、100円均で買った安物だった。どうせすぐ退院するんだと思った。そう、思いたかったから。
高いのを買えば、ずっと使うような気がして嫌だった。
けれど、千鶴がゆっくりめくるカタログにはこれにお花を挿していれば願いがかなうだとか、風水などの効果のあるものもあった。
それらはさほど高値でもなかったから、それを措いたらもしかして……なんて期待を抱いたのだ。
願掛けのようなもの。気休め。そうかもしれないけれど、せめてあの子が目をましたとこに、そこに柵新鮮な花を見てまだ自分が付いているとわかってもらえたら。
手入れのされた花瓶なら、きっとよろ分じゃないかって……。
結局は、目が覚めることを前提に考えてる。いつ意識が途切れて、永遠の――。
(やめよう。そんなことを考えたってあたしには祈ることしかできないんだから)
すべてが無駄になる結果なんて。
「どの花瓶がいいんだ?」
「えっと、啓人は緑が好きだったから……ああ、でも茎とかぶるかな……」
「…………啓人?」
千鶴の表情が急に固くなった。先ほどまでのにこやかさはもう微塵もない。
「誰だ」
怒るような様子ではないものの、機嫌が良いようには見えなかった。
そんな話自分は聞いてない、というのが彼の考えていることだろう。
「……弟」
「弟がいたなんて、知らないぞ。姉さん」
「私は存じておりましたけれど、別に千鶴さんが気にすることではないでしょう? 生活に支障をきたしますか? きたしませんよね?」
「……でもっ」
「千鶴さんは、自分のことだけ考えてなさい。優先順位を常に自分に持っていなさい。あなたは人に気を回せるほど余裕のある人間じゃないはずです。自覚なさい」
(……うわあ、きつい)
しゅん、と千鶴はうなだれてしまったけれどほのかの表情は凛としていてながら、千鶴の横に立つと、そっと彼の頭をなでた。
今の言葉は、本音だろう。愛ある厳しい言葉。だからなのか、千鶴も涙を見せることはなかった。
「……知ってるけど、気になる……から」
「段階というものがありますから、焦らずに」
「……ん」
「弟さんは、無事なんです。ですから千鶴さんが気にかけずにも何も問題がないのですよ。あなたは小枝子さんのほうを向いていなさい」
「それでいいのか?」
「小枝子さんが、貴方に口を開くまで、待ちなさい」
「わかった……そうする」
二人の会話に割り込むことができないまま、小枝子はきゅ、と口を結んだ。
そうなのだ。本来はであってすぐに打ち明けるような家庭事情じゃない。
ほのかはそれを求め、望んだし、そうすることで契約が成立したのだから、特別。
誰にも彼にも話して回れるようなことではない。
それなのに、ほのかに洗いざらい吐いてしまったのは、この迫力のせいか。
千鶴を目の前にすると、すぐに表情が緩むくせに、ほのかは威厳というものがあった。年上だからだろうか。
しばらくしてほのかは小枝子の隣に座り、そっと耳打ちした。
「言いたくないことは、千鶴さんに言わなくていいですからね」
「……はい」
「ご注文の品はお決まりで?」
急に声のトーンをほのかが上げた。ちづるも、ほのかと小枝子のほうをじっと見た。
「えっとまあ、あたしは」
「俺も決まった」
「じゃあ、丸をつけてくれません? ほしいものの名前に。後は個数も」
「わかった」
千鶴がほのかに渡されたボールペンで作業を始める。小枝子が指定したもの以外、彼は丸をつけなかった。
物欲がないのか、満たされているのかは分からないけれど、それを終えるとほのかに閉じたカタログを渡した。
「もっと私に要求していいんですよ? お二人とも」
「俺は、今十分足りてるぞ」
「あたしも、たくさんしてもらえるし……ほしいものは、すべて言ったつもりです」
「なら、よろしいんですが。子供はわがままでいいんです」
(……本当何歳なんだろう、ほのかさん……)
どう考えても保護者目線のセリフだ、今のは。
「少し、お二人で涼んでいてくださいな。トロピカルジュースでも用意します」
ほのかはまた、作りもののような笑みを見せ汗一つ描かないままテラスを去って行った。
千鶴は、少し息が荒く、白い肌にはしずくが伝っている。小枝子もある程度には、汗をかいている。
(……顔に赤みすら、感じられない……本当、人形みたいな人)
容姿だけ取ってみれば、千鶴も十分人形のような容姿をしているのだけれども。
彼は人間らしい崩れもかんじるというかとにかく生きてる館がする。
生き生きしているかといえば、そうではない気がするけれど。
「あーちょうちょー綺麗だなあ」
こんなことをのんきに笑って言っているような様子を見ていれば、感情は確かに感じるし。
「綺麗だね、でも見たことない……」
「ここは山に近い環境だからな、とかいじゃあんまりいない種類もいるって姉さんがうれしげに教えてくれたなあ、昔。俺、ほかの虫は嫌いだけど蝶は好きだ。綺麗だし」
「あたしは団子虫かなあ」
「……えっ」
小枝子の発言に千鶴は明らかにどん引きだ。
「あれ、丸まっててテカって気持ち悪くないか?」
「え、かわいいじゃん」
「嫌だっ、黒い虫嫌いだ……」
おびえたような眼でうるうると小枝子を見る。
ので、虫の話は切り上げることにした。取り立てて楽しい話でもないので。
(……でも、かわいいよね、まるまって……)
口元がにやけたので、千鶴にばれぬようにあくびのふりをした。
そこにほのかがやってきた。
トロピカルジュースには、輪切りのレモンがさしてある。カラフルなボーダーのストローは、ハート型に一度カールしている。
漂うのはさっぱりした、甘いにおい。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
そう言って、目の前に置かれたコップを引き寄せた。うん、おいしい。
やたらと飲み物が出てくる家だ、と思う。でも、真夏だから気をまわしているのかもしれない。
その割にはほのかはあまりそれに口づけない。ただ、見ているだけ。
現在、彼女は着物の雑誌を熱心に読んでいた。
千鶴はやっぱりニコニコしている。
「ねえ千鶴」
「何だ?」
受け答えもかわいらしい笑みで、千鶴。
「あたし勉強ついてけるのかなあ……」
「不安なら、姉さんに指導してもらったらどうだ?」
確かにほのかは頭がよさげに見える。
「それに、極端に頭がいいやつらは特進クラスに回されてるから、極端に難しいことはないと思う。たぶん」
(……たぶんて)
千鶴だって、授業に出ただろうに。彼にとっては最初から在籍していたわけだから、比べようがないのだろう。きっと。
「それに、小枝子ならついてけるだろう」
「何その自信満々な発言」
「通知表見たから」
「なっ」
「姉さんが」
「……そう」
何につけても姉さん、がついてくる気がする。それぐらい、彼の生活に彼女がかかわっているのだろう。
体が弱いのなら、仕方がない気もするけれど、なんとなく聞いているとつらい。
年齢を考えれば、自由に遊びまわりたいだろうに。同情できるような人生は歩んでいないけれど、口を挟まれはしなかった。
むしろ、挟まれたかったけれど、物には限度がある。同性の保護者ならまだしも、異性ならば普通は反抗心を覚えるだろう。
けれども、千鶴は特に気にも留めずに名前を連呼する。
ゆっくりと顔をあげて、じっと空を見れば、青々とした木々がそよ風にゆれていた。ゆらゆらゆら。
「そもそも、部活に集中したい人のための運動中心クラスもあるしな。そこに回る必要もない成績だったと、」
「姉さんが」
小枝子は意地悪く口真似して見せる。
「うん、そうだが?」
どこまで純粋なのか、嫉妬心からの嫌みも通じない。
「ごめん……」
小枝子には珍しく、か細い声で言った。
「? どうした?」
「なんでもないの。ジュースおいしいなあ、ってつぶやいただけ」
「暑いからなー……嫌になるくらい」
千鶴には聞こえなかったのだろう。ストローで軽くグラスをかき回して、ゆっくり飲んだ。
ほのかは先ほどからずっと着物の本を眺めている。時通り手を止めては、何度も同じページを眺めている。
そして時々口だけで深呼吸をしていた。
彼女でも緊張することなんてあるのだろうか。
「パラソル、差すか?」
「んー、平気。ある程度日にあたってたほうが気持ちいいじゃん?」
「まあな、景色もきれいだし。長いこと見てきたけど、自然って飽きないから……空気もいいし……だから、俺はこのテラスが好きだ。
冬の時は外に出られないけれど、ここでならそっと雪に触れるぐらいできる」
「……そう」
「綿のような柔らかい雪が降るんだ。すごくきれいなんだ」
千鶴の無邪気さが、あの子を思い出せる。
――啓人。
目の前で、笑っているはずだった弟。どうして、引きとめられなかったのか。
誰も悪くない誰も悪くない誰も悪くない。念仏のように唱えた、その言葉。
「雪はあんまり好きじゃないなあ……冷えるから」
あの出来事が、浮かんでしまうから。
――「ねえお母さんはいつ帰ってくるの?」
その問いかけに、答えることはないのだろうか。ああもう、答えれる現実も存在しない。
――「いい子にして待っててねって、ほら、僕ちゃんといい子だよね?」
(……っ)
――「僕悪い子? ねえ……答えてよ」
あの悲鳴が、聞こえる。泣き叫ぶ声が。
現実を、拒絶するあの……。
(本当はあたしだって逃げたかった……)
だけど、最後に残された自分だけはと……子供心に思った。
消滅してしまうことの怖さを見てしまったから、尚に。
自殺なんて、しようとも思えなかった。放っておいても消えるのだと、目の前で知った。
人間なんて、生き物なんてはかないものだ。
それならば、守れるかもしれないもののために戦うと、5歳のあの日決めたのだ。
まさかこんな風になるなんて思わなかったけれど。
「じゃあ、とびっきりあったかい編み物を編んであげるな」
「ありがとう」
小枝子は笑って見せたけれど、少し眉がへの字のようになっていた。それが、精いっぱいの作り笑顔だった。
「今から毛糸いいの探さなきゃな」
けいと。その発音が頭に居たい。
(忘れて者岩瀬になんて、慣れないんだわ……あたしが悪いんだ……でもあたしだって自由になりたいな)
それでも、彼の息の根を止めてしまいたいとは思わない。
あの笑顔が返ってくるなら、その矛先が自分でなくてもかまわない。
大好きな小枝子の弟――。
「安いのでいいんだよ?」
「いいもののほうが長持ちするから、いいんだ」
ほほえましい会話なのに、何でこうも悪いとらえ方をしてしまうのだろう。
「そういえば、お前にお兄さんっていたのか?」
「え? 何突然」
「さっき、こっちにお兄さんって人から連絡があったらしい。姉さんが何かメモを取っていたから……」
「……あー……一応いるにはいた。いとこなんだけど、周囲の認識はたぶんそれだったし、彼もそう名乗ってた」
思い出したくない、悪魔のような奴。
(顔も思い出したくない……)
「……大丈夫か?」
また顔に出てしまったのだろうか。小枝子は「なんでもない」と笑って言った。
ただ、嫌な思い出しか彼たいしてはないから、存在を言われただけで嫌になっただけだ。
2番目に、抱かれた人。1番目の出来事を脅しに、強引に。
それからは、予想通り……あの家が嫌だった理由の一番はそれだった。
女癖悪いあいつの性欲処理機になり果てて……同じ家に住んでいるから、住まわせてもらっているから断るわけも行かなくて。
彼は言った。
俺と結ばれるのが一番なのだと。そうすれば、叔母たちも正式に小枝子を娘だと受け入れると。
確かに形式上は晴れて娘になれる。でも、そんなの嫌だった。嬉しいなんて微塵たりとも思わなかった。
こんな男と結婚? 女とっかえひっかえして、遊び放題。お金は全部親がくれる、苦労のかけらも知らなさそうな男。
そのお金を、ほかに回せばいいのに・むしろちょうだい、と何度も何度も小枝子は思った。ねたみに近い恨みを持った。
もしまじめでおとなしい兄だったなら、たとえ彼ほど顔がよくなくても、小枝子は恥じることはなかっただろう。
「あまった毛糸で何か作ろうな。きっと楽しい」
「……うん」
千鶴のほうが、絶対。
絶対――。
(比べるほうが失礼だよね……私の相手にしても、あいつとも)
「あのね」
つい、何か言いかけて口から出た声。
「なんだ?」
当たり前のように帰ってきた言葉。
何を言っても、返答してくれる、そんな千鶴。小枝子は、自分が何を言おうとしていたのか分からなくなった。
伝えなきゃいけないことはたくさんある。言いたくないことも山ほど。
でもそれを隠したままでは、彼をだましているようで荷が重くて。
「……」
黙ったまま、目を潤ませてじっと千鶴を見た後、澄んだ瞳を見ているのに耐えられなくって小枝子は眼をそらした。
「小枝子? やっぱり……嫌か? 俺と一緒にいるの……嫌か?」
「ちがう」
「俺は小枝子が好きだけどお前が嫌なら俺は」
「……そうじゃない」
嫌いじゃない。
嫌いじゃないから迷っている。暴露していいのか。
理解されたいけど、今までやってきたことを理解されたくない。
わがままなことばかり頭の中を支配していく。自分の中に抑え込んでおける容量の限界。
「戻りたくはないの。ちづるもほのかさんも嫌いじゃないの」
「…………」
「それだけは、わかって……」
絞り出すように小枝子。このまま泣きそうで、最近妙に情緒不安定な自分にさらに不安になる。
「大丈夫だ、小枝子」
(でも、人はみんなそういう……本音を知って重さに耐えきれずに逃げていく)
それぐらい、人間関係が薄い小枝子にも理解していた。
大丈夫だよ、ついてるよといいながら体を条件にする男だって中に入る。千鶴はそういう部類では確実にないだろうけれども、どこまでが器の中におさまるかなんていざとならなきゃ見極められない。
「ありがとう」
「どんな過去や事情があっても、居場所の提供はやめる気ないから、俺」
「どうして」
「俺がしたいから。好きだから、したい。好き勝手なだけだから、気にするな」
何が千鶴にとって魅力的に映るのか分からないけれど、そこまでする責任は彼にはない。
けれど、断ってしまえば前の環境に戻って小枝子が荒れてしまう上、それを知った千鶴はきっと悲しむだろう。
気に入ってくれているのは、言葉に出されなくても実感として伝わってくる。
「話を戻すが、指編み、してみないか? 楽しいぞ」
「マフラー?」
「まずはストラップからでも。小さいし、楽だぞ」
「ストラップ……」
「小枝子、何もつけてなかっただろう? それじゃあ落とした時ややこしいし、機種だって新しくしたらどうだ?」
「そう、ねえ」
今までのログを、置いて。新しいスタートを切るのも気分的にも状況的にもいいかもしれない。
もちろんメアドも変えて、叔母たちには教えない。気かrても、忘れていたと嘘をつこう。
(あたしはあの家の子じゃないんだから……絶対もう戻りたくない、もどってやるもんかっ……でも……)
いつか千鶴に拒絶されたら?
……今はそれを考えないようにする。
それまでに魅力を身につけれるよう、ほのかにマナー本をお勧めしてくれないかと小枝子は頼んだ。
それを眺めながら、時たま顔をあげて千鶴の様子を見る。今は、何か小物を塗っているようだった。
くねくねとした、輪っかのような……。
「できた!」
驚いて小枝子は肩をはね上げる。
「リボン付きのシュシュ! 今度はスパンコール付きを作る」
「……シュシュ作ってたの?」
「簡単だから、小枝子もやるか?」
「針怖いかも」
「いい練習になるぞースパンコール縫いつけたり」
「好きねえ」
「俺が楽しく過ごすには最適の趣味だから」
そう言って、千鶴は視線を新しい端切れにやった。そして一番上に積んであった花柄の生地をまた縫い始めた。
「できたのは小枝子が一番先に選んでいいからな」
「ありがと」
「小枝子のパイナップルヘアなら、シュシュが映えると思って……でも、やっぱり手芸はいいな。嫌なことを忘れて没頭できて」
「普通に売れそうなレベルだよねーすごい。あたしミシンでなら平気だけど針じゃ遅くてなかなか進まないよ……なんとかできるんだけどね」
「適性や向き不向きがあるさ、小枝子にも才能はある」
千鶴は口元をゆがめて笑う。
「あえて言うなら頭を使わないことかなあ……運動とか、マラソンとか特に」
「いいな」
ちくちくちく。
小さな穴が開く。
そしてその穴に異物が入っていく。
「できた」
完成する。
「光速……神業……」
「次は何色にしようかなあ……新しいものがいいな、とびきり新しい素材」
そう呟いて、千鶴は金色のベロアの布を選んで縫い始めた。
4へ→(準備中)
素材はここでお借りしました。