手洗いを済ませ、小枝子はふわついた気持ちのままテラスに出た。
夏の風にあたりたかった。生温かい、時に冷たい風に。
「小枝子……」
普段通りの甘い声。
どこか様子を窺うような、くすぐったさを感じさせる様子で千鶴はやってきた。
過剰なまでにフリルのついた、ピンク色のブラウス。
その下を、ふと想像してしまう。
(……気にしちゃだめだ)
下にはいてるのはブーツカットの黒いズボン。
部屋着としては、正直ごちゃごちゃしていて非公立的な恰好だ。
思い出してみれば、千鶴はそんな恰好で居ることが多い気がした。
この身なのかもしれないけれども、日に日にその服のボリュームは増していった。
考えたくない。
理由なんて、考えたって無駄だ。
その服の下も、何だって。
「……びっくり、したか?」
何に対してして、と心では即答できるのに、言葉にはできない。
後ろめたさから、のどに押し戻るように言葉が落ちて、心臓に落ちてしまったかのように心が痛い。
普通にしていたらあんな傷が付くわけがない。
「小枝子」
千鶴は一体どうして……。
「小枝子っ」
(……どう対応すればいいのかわかんないよ……)
傷つけたくない。関係を壊してしまう気がして、触れられない。
好きだから、だけじゃないかもしれない。
自分で自分がわかんなくなるほどにごちゃごちゃして、同情なのか愛情なのか自己保身なのか、自分の気持ちの原因さえ分からなくなってくる。
「返事を……してくれ……っ」
泣きそうな声だった。
うつむく小枝子に、千鶴は震える手を頬に寄せた。
「……小枝子……」
「……っ……」
「見られたくなかった、あんな……みっともない姿」
「…………」
「あれは、故意につけた傷ではないことだけを、今は告げておく。芽衣との関係は、今から説明する」
千鶴は、ぽつりぽつりと語りだした。
小枝子はただ、一心に彼の瞳を見つめ続けるしかできなかった。
「わあああ!! 可愛い子ね! この子? ほのかちゃんが言ってた引き取ってほしい子って」
「すみません、もう志和様だけで大変だというのに……戸籍だけで……戸籍だけでいいんです。それだけで、十分です。
力を貸してください。後は私が何とかします、だから」
「ちづるちゃんかーじゃあちるづーちゃんね! あだ名!」
「いや、この子は……」
言葉は耳を通り抜けるように、ただ雑音のように当時の千鶴の体を通り抜けて行ったという。
当時の千鶴には、状況は理解できなくて……ただ自分がもう二度とのあの家には戻れないのだという、
その事実だけが明確に見えた。
「千鶴さん、こんにちは」
「……」
「大丈夫ですよ私たちは怖い人じゃないですよ。もう怖い人はやっつけちゃったので、大丈夫ですよ」
家庭のいざこざだとか、そんなこんなで千鶴はほのかと一緒に暮らすようになったらしい。
津野田の令嬢であった桜は、当時婿養子を迎え、すでに2歳になる息子を育てていた。
彼も、彼女の隣で千鶴を見つめていたという。
虚弱体質から、前の家で生活することが無理になり施設などを渡り歩き……
色々あってほのかの目にとまり、彼女が千鶴の養母になることを名乗り出た。
引き取るときにかかるお金は全部彼女が工面したのだと、千鶴は後から知った。
「それにしても、綺麗な子ねー……芸能人みたい。ほらたとえば昔はやった子役の……」
「千鶴さん、私の名前はほのかと言います。これからあなたのお世話をさせていただきます。よろしくお願いします」
「あー、ずるい、私の名前は桜ね。まだ20だからお姉ちゃんでもいいけど、やっぱりママがいいなあ……」
「僕じゃダメなの?」
年の割にやけに流暢な言葉で志和が突っ込む。
傷は、主に治療の跡で体力のなさから転倒したりで増えていったらしい。
そういいながら、千鶴は悲しそうに笑った。
当時のことはあまり覚えていなくて、断片的な出来事だけを覚えているのだと。
そして芽衣は、その前の……実の家での弟で、双子なのは間違いなく事実だと。
今までろくに連絡を取っていなかったから、びっくりしただけのだと。
自分が馬鹿なのは、病弱で勉強する余裕がなかったからだと、そういうときもやっぱり笑っていた。
お金がなくて、治療らしい治療ができずにいて、ほのかのところにきてようやく勉強ができるぐらいには落ち着いたのだと。
そうやって、ひたすら笑って彼は語った。
ただひたすら、笑っていた。
それが何を示すかぐらい、小枝子にだってわかった。
(……あたしが、心配しないように、気を使わないように……)
彼はずっと楽しかったエピソードだけを詳細に語った。
それはとても些細なもので、普通に暮らしていれば当たり前に過ごせるものばかりのたわいのないもので、
聞いているだけで小枝子は涙でぐちゃぐちゃになった。
泣けば泣くほど、ますます千鶴は心配するだろうから、
むちゃくちゃに笑顔を作って面白すぎて泣いているのだと嘘をついた。
「芽衣がな、友達と遊んでて見つけてきた綺麗な石をくれたんだ。お気に入りの、大事な石だったんだろうなあ」
「うん」
「母さんも、いつも丁寧にリンゴをすりつぶしてくれて、すっごいおいしくて……
たまに、高いのにはちみつかけてくれて」
「おいしいよね、はちみつりんご」
「だろう? すっごい相性いいよなあれ」
「すぐ汚してしまうのに、いつも笑顔で服を洗濯してくれて、たまにかわいいアップリケを付けてくれるんだ、母さんは」
「うん……」
「父さんも会社で貰ったお菓子で食べれそうなものは全部俺にくれた。
ジャムとか、夜勤するともらえるって言ってた混ぜご飯のおにぎりを、おかゆにしてくれた」
「いいなあ、特別だったんだね」
「すごいやさしいだろう?」
「……そうだね」
手が震える。千鶴の笑顔がつらい。
どんな気持ちで今、千鶴は笑ってるのだろう。
「あたしも、混ざりたかったなあ……」
耐えきれなくなり、ごまかすように千鶴に抱きついた。
抱きつくというより、自分の中では抱きしめたくなって、仕方がなかった。
自分ばかりが不幸だと思っていた、あの時期と比例しても千鶴の幸せはとても些細で。
そんな些細なことでも千鶴はうれしいと感じたのだろう、きっと。
(……つりあわないじゃない、あたしじゃ……)
千鶴は正直頭はいいとは思えない。
でも、馬鹿だけどそのぶんほとんどが素だろう。
小枝子は計算だらけで生きてきた。自分にもたくさん嘘をついた。
それは過去のことでも……そう生きてきたという事実は変わらない。
それが社会的にどうかとか、啓人が今どうとかじゃなく、千鶴の小さいことでも大げさに喜べるところが、
きれいすぎるようにみえて、なんだか自分が隣に居ることがずうずうしいように思えて、そう考える自分がいやで。
無限ループに戻るだけだから、そんな感情捨ててしまいたいけれど。
「小枝子」
「……あ、ごめん。高いシャツが……」
「そんなのどうでもいい」
「……」
高い、と口にしただけで、罪悪感なのに千鶴の優先順位にさらに悲しくなる。
この服をくれた人にも、千鶴はきっと感謝している。
そしてその対象はほのかで、実際ほのかに千鶴はな付いているし、基本素直だ。
ほのかだけにじゃない。
学校でも男子にはおびえはしても暴言を吐くことはないし、煙たがることをしない。
(……あたし、千鶴のそばに居たい……よ)
そうするには、どうすればいいのか。
その答えは、小枝子の頭ではすぐには浮かんではくれなかった。
その日は、千鶴と一緒に寝た。
とはいっても、啓人も一緒になので、2人ではないのだけれども……。
間ばさみになってる間、小枝子は幸せだと思った。
探せば、幸せはそこにあった。
(……相変わらず無防備……)
思わずほっぺをつついて、千鶴の顔を見た。
墨汁を落としたような色の髪の毛が頬にかかって、肌の白さが露骨になる。
その色も、きっと本人の望みではなくて。
「…………千鶴……」
「何だ?」
「!」
即、返事が返ってきた。
ぎょっとした小枝子を見て、千鶴は笑う。
「ほっぺつつかれたから起きた」
「……ごめん」
「なんであやまるんだ?」
「え」
「また寝ればいいだけだろう? しゃべってからでも」
そう言えば、千鶴はいつもすぐに眠って行く。
本人にとっては起されるということ自体は別に大した問題ではないらしい。
「小枝子が一人暇してるよりずっといいしな」
まただ。
「今の時間じゃテレビつけてたら啓人が起きるし、そもそも通販のCMしかしてないだろう。
それじゃあつまらないし、静かに話してるか? 眠くなるまで小枝子に姉さんから教えてもらった魔女の話でも……
」
「……大丈夫、平気」
「でお今まだ4時になったばっかだぞ?」
「雑誌読むー」
千鶴が露骨にしょぼんとした顔をする。
(……あ、さみしいんだ……)
かわいい、と思う。
思わず頭をふかふかとなでて小枝子は笑っていた。
「大丈夫、話きくからね?」
(大丈夫。千鶴は私が好きなんだから……)
ただ、目指すべきものは。
「本当か?」
「はいはい、千鶴声大きい」
「……ごめん」
「しょげないの」
自然と、笑顔が漏れるのは、なんて幸せだろう。
そしてきっと当時の千鶴だって、勝手に笑ってたのだろう。
それは、別に比べなくていいこと。
ただ少し、自分が幸せに過敏になればいいだけの話。
千鶴がきかせてくれた魔女の話は、どれもこれもおかしくて、声をあげて笑ったのだった。
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