今思えば、ばかばかしい理由で絡まれては、ふてぶてしい態度でその場を戦場に仕立て上げていたと思う。
別にそうまでして喧嘩に持ち込みたかったわけでもなかったし、もともと血の気が多い性格というわけでもなかった。
どちらかといえば気は強いけれども、ワイワイとみんなで盛り上がるほうが、ずっと楽しかった。
最後にそんな体験をしたのはいつのことだろう。もう年単位で経験していない。
表面上は笑ってはしゃいで見せても、心には何一つ感情が残らないまま、時間を重ねていった。
体を重ねるだけで積まれていくお金は、どんどんあの子のために消えていった。
表向きは彼は養子に行ったことになっている。母が他界して、いろいろもめた後、意識不明になった彼を養う金はないと、叔母は小枝子だけ引き取った。
ないと、叔母は小枝子だけ引き取った。実際は、チューブにつながれただ機械音を鳴らしながら「生きているだけ」なのに。
だからこそ、嫉妬やねたみ、むかつくからだとか目立つからなんて理由で絡んでくる先輩にイラついて、挑発する態度をとってしまったのだと思う。
自分のためにお金を使って、友達グループを作っては部活に励む彼女らが羨ましく思えた。
小枝子だって、そうなる権利はあったはずなのに、どこで何を間違えてこんな立場になってしまったのか、自分でもいまだわからない。
わかっていたのなら、とっくに今からでも道を変えようともがいている。
中学一年生でできるバイトなんてたかが知れていて、新聞配達なんてしようものなら叔母たちから疑いの目を浴びせられるだろう。それゆえに、援助交際という最低な行為に手を出す羽目になったのだ。
小学生のころ性犯罪に巻き込まれた時に、吹っ切れる理由がほしかったから手を出し始めたのかもしれない。相手から誘われれば、値段が良ければ何度もヤった。最初こそは履いていたけれど、そのうち親父たちが惨めな生き物にしか見えなくなった。
お金を出して、上に立ったつもりでいる彼らが無様に見えて、心の中で見下しながら紙幣を受け取っていた。
「安藤」
誰かが小枝子を呼んでいる。どこかで聞いたような、そんなあいまいな声。
「誰?」
「誰って ……なあ……俺は一応クラス委員なんだけど」
七三わけの少年は、不満げに。なおかつ少し照れた様子でそう答えた。
「で、そのクラス委員が何の用事?」
少年のような態度はもう慣れた。どうも気弱な男子にとって小枝子は話しかけにくい存在であるらしい。
遊んでるタイプの生徒には、取引の材料にされ、彼女にねたまれたりする。どっちも正直うれしくない。
「何って、お前体育祭でないって本当かよ」
「あー、だって練習に時間とるし」
そんな余裕など存在しないのだ、小枝子には。数時間あれば万単位が稼げる。
「お前が一番クラスで運動神経高いんだから、女子で……出てくれよ……先輩に文句言われるの俺なんだよ、やたら今年の先輩は気合入ってて」
本当は、学校行事を本気で楽しみたい。運動だって大好きだ。部活にこそ所属していないものの、ピンチヒッターで小枝子はちょくちょく活躍している。
部活に入るには、金髪を染めろと言われるのが必須だからというのもあるけれど……右耳に空いたピアスも、きっと文句を言われるだろう。
穴は固定されはいるけれど、閉じようと思えばどうにかなる大きさだ。そこにぶら下がってるお守り代わりのピアスをつけられなくなるのは避けたかったので、助っ人要因になるという理由をつけて全部活の頼みをけった。
最初から勝つ人が決まってるスポーツなんて、芝居仕立ての出来レースにしか思えないのもあったので、助っ人はお金がもらえるとき以外はやらなかった。
勝つための努力をしなくても、自然と体が動いた。自分の能力ではあくまで、小さな世界の中だからこその勝利。それも自覚していた。
本気でやって広い世界に足を踏み入れる余裕など、小枝子にはなかったのだ。
だから、運動部のジョギングが目に入るたび、顔を伏せたくなった。
そもそも、体験入部すら経験「できなかった」
してしまえば、どこかに入りたいという欲求が芽生えるのは目に見えて明らかだったから。
昔は運動が好きで、そこら中を飛び回っていた。
草むらも、公園も、海も。ぐちゃぐちゃに服を汚しては、弟や友人とじゃれていた。
最後にそうやったのはいつのことだろう。
――あれからもう、8年が過ぎようとしていた。
ありきたりな日常が下らないとは、もう思えない。
思わないのではなく、思えないのだ。
「ねえ帰りどっか寄る?」
「プリ撮んねぇ? どうせなら」
「んーいいけど昨日も撮ったじゃん? それにうち今日肌荒れひどいんだけど」
(……羨ましい会話)
クラスメイトの雑談を背に、小枝子は黙々と鞄に教科書を詰め込んだ。
自分にはそんな余裕はない。さっさと駅に向かって、化粧して、ロッカーに入れたる服を着て「仕事」をこなさなきゃいけない。悪いことだという字かうはあるけれど、それしか手段はないのだから捕まってでも「彼」を生かさなきゃいけない。そしてそうできるのは自分のみ。
他人には頼れないのだから、犯罪者にだってなる。
彼がいなくなれば、自分の存在意義もなくなる。
求めてくれる人は、ほかにいないのだから。非難するなら、代行者になってくれるというのだろうか。
命の重さなんて立場によって変わる。
それはお金だって、食べ物だって。っそんな当然のことを、説いている暇など、小枝子にはない。
「安藤さぁーん」
小枝子の名前を、誰かが呼ぶ。面倒くさいと思いながら、仕方なしに顔を動かす。
「……急いでるんだけど」
冷たく言い放ち、ため息を漏らした。
正直、かかわる余裕なんてない。委員会の仕事すら、めんどくさくて男子に媚を売ってごまかしているというのに。
「ごめんー。でも先輩が安藤さん呼んでて」
「女子? 男子?」
「え、女の先輩だけど」
「じゃあ、どうでもいい」
きっと誰誰に手を出したとかそんなくだらない説教。
それか、身だしなみについての文句。誰が好き好んで誘惑するか。有利に学校生活を過ごすためだけの、駒だ。
「困るんだけど。先輩に私まで目ぇつけられるじゃん」
「請け負うから悪いんじゃん?」
「断れるのは安藤さんだからでしょ? 安どさんみたいに気が強くないもん……」
(……気が強い、か)
そんなことはないのに。
本当は人一倍強がりなだけだ。
気を張っていないと崩れてしまうようなそんなもろい心の持ち主なのは、自分が一番自覚している。
だから「彼」のためだと割り切って、自分に言い聞かせるように耐えて、こらえて……。
意味を持たせないと、自分が壊れてしまうから。人を人生の理由に使うなんて、ばかげてると言われるのは分かっているけれど、それでも、そうしないと12歳の小枝子には、天涯孤独な人生は重すぎた。
それでも、時々自分は強いのだと、錯覚するように教え込んだ。
そういう態度を演じていれば、そんな気分になれた。
「直接今度来てもらえば、対応するけど?」
「なっ……」
「本当急いでるから、今度に回せない?」
「……そんなんだから浮いて……」
「……別に、なじもうともしてないから」
「あ……ごめ……」
「本音が漏れたんでしょ。どうせみんなそう思ってるの、知ってるから。
仲良こよしのクラスがモットーなのに、あたしだけあぶれてる。それが担任だって不満なのも、知ってるよ?」
「…………」
「じゃあね。授業もテストも出て、成績が悪くないんだから、定時ぐらいには引っかかるでしょ、進学も」
普通の高校の進学なんて当初から予定外だ。そんな時間はない。別に特別頭が悪いわけでもないのだから、
本気でやれば余裕で受かるのだけれど、長い時間結束されるのは義務教育だけで十分だった。
就職さえいいところに進めれば、それで十分。効率よく、稼げればそれでいい。
昼はどこかで働いて、夜も18を超えればそこらへんで体験入学でも繰り返し、稼げばいい。風向きが悪くなろうが、別にいい。
そもそも、そういう目で見るような友人さえ存在しないのだから。
固まるクラスメイトをよそに、そそくさと教室を出た。
「いけない」
外の夕暮れを見て、あわてて駈け出した。視線の中に、自分の金髪がちかちか入って、透けて光る。
色を抜いたのはいつだったか。自分を捨てるのだと、決意したあの事件。
地毛の色と一緒に、何かも抜くように捨ててきた気がする。
それが何かは、小枝子にはわからなかった。
君のいない楽園
唇にはグロスを塗り、目元はつけまつ毛で着飾る。
それに露出度の高い衣服を身につければ、小枝子の「仕事着」は完了だ。
金をかけたおしゃれはできないし、もともと派手な顔立ちだから、色は使わなくてもいい。きつそうな眼もとと、ぷっくりとした唇は母譲り。会合
眉毛は薄くできないので、眉マスカラで色を付けているので少々太め。
そんな支度さえ終われば、「仕事」は勝手にやってくる。
「ねえ、彼女ォ」
荒い息の粘っこい親父の声。
「……何ですか?」
それに愛想良く振り向いて、答える。決して気持ち悪い見た目でも笑顔。
「今暇?」
「暇ですよォ」
これで今日も食いつなげる。そんなことを思いながら、ふと視線の先に気になるものが入った。
青い顔で、ふらつく人間。手にはどこかで買ったショップ袋。足取りはふらふらで、いまにも転びそう。
ただでさえ人ごみにあふれたまちなかで、その人はよたよたと歩いていた。
気にはなるけれど、きっと誰かが手を伸ばすだろうと、その人を小枝子は視線から外した。
「どこ行きます?」
「んーじゃあ近くの……」
とたん、周囲がざわめく。何が起こったのかと騒ぎの中心に眼をやるとさっきの子が倒れていた。
(……あーあ……)
誰もが心配そうに身はするものの、手を出しだそうとはしない。
残念ながら交番は遠いし、みんなは早足に歩いては、大丈夫かなーなんて余裕をかましてしゃべっている。
みんな自分と同じで、誰かが手を貸すだろうと思っているのだ、と小枝子は悲しい気分になった。
(私だって、引き取り先そんなんだったな)
押しつけるように遠まわし遠まわしに自分はだめだと、理由を正当化して拒絶する。
そんなあの時の光景がフラッシュバックして、気がつけば親父を振り払い騒ぎの中心に立っていた。
倒れたその子……たぶん女の子をさすり、そっと支える。
お金なんて後からでいい。今はこの子をさっさとタクシーにでも乗せて、家に運ぶしかない。きっと貧血だとか熱中症か何かだろう。
触れてみると肉付きの悪い華奢。年齢はよくわからないが、美人だ。
「大丈夫?」
お姫様だっこをする形で、ゆっくり座れるところを探しながら尋ねた。当然目立ってはいるものの、どうでもいい。
「……ん……」
彼女はうっすら瞼をあけてはいるものの、目がうつろだった。
長く多いまつ毛のせいで、尚に表情が読み取れない。青白い肌は、熱を持ち、彼女の体調が悪いのだと小枝子に知らせていた。
近くに見える森林公園にやっとつくと、そこの樹蔭に彼女をそっと寝かせた。ベンチもあるが、固いのでこっちを選んだ。高そうな服が汚れるのは申し訳ないけれど、熱い日差しの中一人きりで、飲み物を落としに放置していたら何されるかわからないルックスだったから、そうするしかなかった。
自販機からスポーツドリンクを落とす。自分の分は増量中と張られているジュースを選んだ。駆け寄るように彼女のもとへ向かいながら、穂にそれを当てかすかな冷を得る。
「……はい」
「……ん……」
彼女の隣に肩を下して、ジュースを差し出した。
伸されてた手は震えていて、力ないもので、ジュースの缶は草の上に転がって行った。
「しっかりして」
うつろな表情を見ているとこちらまで不安に駆られてしまう。そっと膝に彼女の頭を載せると、長い髪がさらりと揺れた。
(……やっぱ異常に軽い)
「へい……き」
つぶやくような声で、彼女。
「全然平気じゃないじゃない」
ぐったりした姿に、つい手が動いた。強引に口の中に手を入れ、その中にジュースを少量流しこむ。
衝動的な行動故、むせかえった彼女を見てあわててそれを取りやめた。
「……ごめ」
「……ごほっ……ぐ」
「本当ごめん、つい発作的に……ってぎゃああああ!! 服べっとべりじゃん!! 風邪ひくよっ、どうしよう」
「平気……くしゅ……っ!」
「駄目! 駄目なの!! 着替え持ってるからそれ着て!」
「……お前みたいな恰好じゃ直に寒い!」
ごもっともな意見ではあるけれど、濡れたまま体に衣服が張り付いているのは確実に気分が悪いだろう。
暑いから、服が乾くのは早いだろうが、水ならまだしもジュースでは、べたつくにきまってる。
「とりあえず脱いで、体拭くから。大丈夫、人影もない公園だから」
そう言って、小枝子は「彼女」の服を剥いだ。
「……は?」
その後の小枝子の第一声は、間抜けながらこんなもの。
仕方がない、誰だって誤解する。こんなルックスじゃ、わかるわけがない。
「……あんた男?」
「…………そうだが」
うるみ目になりつつ、「彼」は答えた。
むき出しになった体は、やっぱり骨が浮くほどに細く、見ていて痛々しささえ感じるほどだった。
(見えなかった)
もうすでに彼は半泣きだ。
「とにかく、濡れた服よりましでしょ? この前もらったのが入れっぱなしだから、新品だしきれいよ」
「…………」
「安心して。オールインワンだから、ズボンだから。値段も高くないし」
「かわいいか?」
「は?」
「その服はかわいいのか?」
唐突な、わけのわからない質問。
「落ち着いた色合いの花柄で、すごいかわいいけど。リボンとレースもついてるし」
灰色に近い茶色に、水色の花が描かれた、大人っぽいデザイン。
ピンクや白もあったけれど、汚れが目立たないこれを選んだ。それに、これならたとえ汚してもパジャマとして使えると思ったから。
「……リボン……レース……」
「……女の子っぽ過ぎる? やっぱ。でも露出多いいまあたしが着てるやつよりはましだと思うんだけど……」
「……いいなあ」
「はい?」
少年の目が、輝いている。
「着る?」
「着る」
(……即答)
女装癖でも持ってるのだろうか、彼は。確かに似合うだろうけれど……。
思わず小枝子は彼をじっと見て、それに気付いた彼はきょとんとした顔で彼女を見返した。
「……そのピアスかわいいな。ハートの、ピンクのビーズの」
「そ?」
鞄から袋を取り出し、それをそのまま彼に頬り投げる。一応、きれいなハンカチも一緒に渡しておく。
別に男の裸ぐらい、どうでもいいけれどガードするように前に座り込んで、そっちを見ないようにした。
布のかすれる音がする。ふと、思い出したのは泣きながら弟の顔を拭った日のこと。
割り切ると決めた、あの日。
彼の細い体を見て、反射的に浮かんだのは、動くこともできず、ただ年だけを措いていく……あの子の姿。
あんなに丸っこくて元気に走り回ってたはずなのに。
あの頃にはもう戻れないと知っても、もしかしたらと願い無駄な行為を続けているというのは、小枝子が一番わかっていた。
いまさらあの子がこの世界に戻ってきても、彼の望むものはもうそばにはなくて、小枝子のことすら、恨んでしまうかもしれないのに……。
(……ただのエゴ)
かみしめた唇が切れて、口内に血の味が広がった。
木の葉が揺れ、影も揺れる。何も変わらないなんて、ありえないのだと、ひらひらと舞い落ちた葉っぱをみつめながら思う。
「……着替えた?」
振り向かぬまま、小枝子は尋ねた。
「……少し横にでかい……」
「それMサイズだから標準サイズだと思うんだけど」
「……丈が少し短いな」
「そりゃ、あんたのほうが背が高いんだからしょうがないじゃん? 応急処置なんだから」
「もらえないのか? この服」
「…………ほしいの?」
小枝子の声は、軽く裏返っていた。
「……駄目か?」
「……どうするの? 持って帰って。着るの?」
「いや、とっとく。かわいいから」
「…………」
「代わりの服を、今度渡したいから、連絡先教えてくれないか?」
(……ああ、そういう)
かわいい顔をしていても、男なのか、それとも単にマメなのか。
本音を述べさせてもらえば、下心があったとしても、余裕で仕留めれそうな軟弱体系だし、もらえるのならと小枝子はアドレスを手持ちのノートを破いて手渡した。
それと同時にじゃあ、と彼は立ちあがろうとして盛大によろけた。
それをさっそうと小枝子がキャッチしたからいいものの、顔色はまださえない。
「……ねえ、本当大丈夫なの?」
「だから平気だ……って……」
「……家どこ?」
「いい、から。一人で帰ることぐらいできる……から」
ぐずるような言葉に、小枝子はもう一度木の根もとに腰をおろした。
「ばっかじゃないの」
自力で自分の身の重みも支えられないような状況で強がってどうする気なのだ、この人は。
はあはあと漏れる息も、生温かく、調子が悪いのは遠目から見てもわかるというのに。
乱れた服をただした直後。彼のカバンから携帯音が鳴った。
もう制止することもできないほどにぐったりとしている様子を見て、小枝子は断りもなく携帯を開いた。
姉さん、と表示されているその番号に、一息をいてから応対した。
「こんにちは」
まるでコール嬢のような作り声で、小枝子。
「……どなたでしょうか」
そして相手方の当然なる対応。そりゃそうだ。
この男と小枝子は今まで接触などないし、つながりだって見つけられないのだから。
いきなり自分の弟にかけたら、女子が出てくれば彼女か何かと勘違いするだろうし、何で彼が出ないのかと考えもする。
その考えが露骨に、彼女の声からはにじみ出ていた。少し酒焼けしたような色気のあるハスキーボイス。
「えっと、貴女の弟さんを保護しているのですが」
「……警察の方でしょうか」
「いえ、そうでなくて」
「ですよね。いくらなんでも声が若いですし……今どこに?」
「森林公園ですが……」
「そこまでは分かってます。そうでなくて、森林公園のどこでしょうか? 今から迎えに行きます」
(……え、何で場所わかってるの?)
するするとことは進んでいった。
黒い巻き毛を持った豊満な美女が現れたかと思うと、ヘリに彼を担いで押入れ、ついでだと小枝子も同時に乗せてくれた。
彼を送った後に何かしらご馳走してくれるらしい。
送ってくだされば結構ですと申し出はしたものの、彼女から漂う甘いスパイシーな香水は、有名ブランドのもので、自家用ヘリを持つぐらいの金持ちのようだったから、つい言葉に甘えてしまった。
高級なその香りが漂う中で、まるで母に抱かれる子供のように彼は眠っている。
彼女の顔を見た途端、ふっと意識を失ったのだ。
一瞬悲しげな表情が浮かんで見えたけど、きっと気のせいだろう。
「紅茶飲みます?」
「え、あ……はい」
アイスティーをお洒落な紙コップに注がれ、小枝子はそれをゆっくり口の中で楽しんだ。
普段味わえないような、濃厚でなおかつさっぱりとした飲み口のものだった。
「おいしいです」
「それは、どうも」
うっすらと目を細めて笑う彼女の表情は、ものすごく高貴に見えた。
ドレスのような服装も相まって、貴婦人にしか見えない。しかしここは現代の日本だ。皇族は来ても貴族なんて存在しないはず。
紅色のドレスは、和風ゴスロリのようなこってりとしたフリルはないのに、華やかさはそれとさほどないように感じた。
「すみませんね、お手数をおかけして」
しっとりと優雅に彼女は彼の髪の毛を手串で溶いて見せた。
彼の体にかけられたタオルケットは、どこか年季のはいったもので、高級なものだらけの空間から少し浮いて見えた。
まるで小さな子供に使うもののように短く、彼の体系には不釣り合いなのだ。
「いえ、あたしは大したことは何もしてませんから」
「十分ですよ。今時こんな状況の子に手を差し伸べれるだけ、素敵だと思います」
(……まるで年寄りのような言いよう)
見た目はまだ30もいってないように見えるのに。
ばっちり施されたメイクは、多少古風な感じがするものの、肌のつやはまだまだ若もののそれである。
まあ、金持ちならばお金をかけて手入れすればどうにでもなるのか知れないけれど。
巻かれた髪さえも、痛みを感じさせない。天使の輪は奇麗にカーブを描き、ツバキ油の香りがかすかに香る。
それでも、香水と混ざり合い不快なものになっていないのは、彼女が気にとめているからなのだろう。
「本当、千鶴さんがいなくなったと思ったら案の定倒れて……学習能力がないったら……
あれほど抜けだすなと言っておいたはずなのに……もう少し自分の体力を理解して動いてほしいですね」
「はあ……」
「……すいません、つい愚痴をこぼしてしまって。
……療養中だったんです、この子。もともと体の強い子ではないので……回復するまで家にいなさいと命じておいたのに、買い出しに行ってる最中に……」
「大変ですね」
「まったくです」
そう言いつつも、彼女の表情は柔らかい。
「こんなことしなくても、私はいなくならないですよ……千鶴さん……」
連呼される名前に、自分が名乗ってさえいないことに気がつく。
あわてて小枝子は広げ気味だった足を閉じ、軽く立ち上がり頭を下げた。ヘリなのに、天井が無駄に高いので頭を打つなんて悲劇は起きなかった。
「どうかしました?」
「……名前を」
「ああ、大丈夫です。すでに存じていますから」
「え……?」
おかしい。小枝子はこの女性どころか彼にだって名乗っていないというのに。
不思議そうな小枝子の表情を見つめながら、彼女はくすりと笑った。
「鞄から、名札の付いたキーホルダーはみ出してますけど?」
「ええええ」
あわてて確かめてみれば、本当に幼稚園の頃の名札をそのままキーホルダーにしたものがしっかり鞄の中から顔を出していた。
今日の帰りに荷物を積めたときは、大丈夫だったから動いているうちにはみ出してしまったのだろう。
「かわいらしいお名前で」
「……どうも」
「私の名前は、ほのかと申します。よろしくお願いします」
「……はあ」
よろしく、といわれてもこの先かかわることはないともうのだけど。
多少なり、少年のほうとのやり取りはあるかもしれないが、短期間で終わることだろうし。
きっと、何かしらもらったりするなりしてある程度で縁を切ることだろう。
利用するにはあまりにもかわいそう過ぎる相手だ。軽く嘘で丸めこめば、いくらでもつぎ込んできそうな、底なしのお人よしタイプに見える。
当人は赤子のような無垢な顔つきで眠っているし、彼の手をほのかは話そうとしなかった。
時々小さく唇を動かしながら、もにょもにょ言っているが、うまく聞き取れない。
一瞬目元が光った、気がした。
「……あの、彼は」
会話中に出てきたので、わかってはいたけれど礼儀として一応聞いておく。
「千鶴さんですか? 津野田千鶴です。……ご存知ですか?」
「……え? ご存知といわれても、人さまの名前はかかわりのない限り覚えてないですけど」
そもそも接触していても、ほとんどの男の名前は記憶の底に眠ってすらいない。外にぽいされているけれど。
もう誰が誰だかわからないので、「ねえ」だとか「あのね」とか甘えた声で呼びかけて、ごまかしてきた。あなた、なんて芝居がかった呼び名は、小枝子の年齢にはまだふさわしくないし、お前なんて呼んでしまえば、割り切った関係だという事実が露見してしまう。
「……知らないんですか?」
「知りませんが」
「おかしいですね……
」
ぶつぶつと、ほのかは何かをつぶやいた。
「……あの、彼はアイドルか何かなんですか?」
名前を聞くだけで通じる人物というのなら、有名人なのだろう、きっと。
顔立ちは整っているし、芸能人や、何か特殊な能力を持ってるだとか……それなら、テレビを見ない小枝子が知らなくても、おかしくはない。
一応は、総理大臣の名前は把握しているけれど、誰と誰が熱愛中だなんて話題は、人の口からしか耳にしない。
ファッション雑誌ですら、駅で暇な時に開いて、立ち読みで済ますほど。数年前に付録の財布がほしくて買ったのが、最後の購入履歴。
その財布は今もボロボロになって小枝子のカバンに入っている。
そんなもの持って、なんて同情されてオヤジどもからブランド品を買い与えられても、所持していることすら不愉快で、すぐに売り飛ばしてしまった。
気持ち悪い、と生理的な拒否感を覚えながら関係を持つ自分が、なおさらに気持ち悪くて腹正しかった。
さみしさの穴埋めや、お小遣い欲しさなんて理由なら、ほかに矛先を変えることもできたのだろう。
けれど、これほどまでに効率よく、命を維持する方法を、小枝子は知らなかったのだ。
気がつけば、ヘリは地上に付いていた。ほのかがゆっくりと千鶴を揺り起こす。
「……付きましたよ」
それは優しげな母親のように。しっとりとした目線で彼に声をかけるほのか。
まだ夢見後血の彼の体を抱きしめるように立たせる。
まだ睡魔に喰われているのか、千鶴はされるがままになっていた。ふさぎがちの瞼から伸びたまつ毛が、人形のようで美しい。
さりげないしぐさなのに、絵になってた。
「……んー……まだ寝る」
「ハイハイ起きますよ。じゃないと周りにも迷惑でしょう」
「わかった……起きて寝る」
会話さえかわさなければ。
(……どんだけ眠たいの)
半ばほのかに担がれるように、千鶴はヘリを降ろされ……降りて行った。そのあとを、小枝子も続く。
運転手に軽く頭を下げて、駆け寄るように二人を追いかけた。
ら。
「……あのー」
「何でしょう?」
「ここどこですか? 市民公園? ベルサイユ?」
小枝子の気の抜けた言葉に、ほのかはクスクスと笑う。
「千鶴さんの、実家ですが」
「……あーー……って……!! 実家あああ!? うそでしょ!? ここ豪邸じゃん!」
「そうですね、豪邸です」
「……普通の家じゃ、ヘリを呼ぶことなんてできないんだってもっと前から考えておけばよかった……」
「ですね」
ほのか動じずに、レンガづくりの塀に付いてあったカードキーにキーを差し込んで、ずかずかと中にあがりこんでいった。バラの上品な香り漂う庭園は、もう、秘密の花園と読んでもおかしくないレベルの手の届きよう。
(……一本いくらで売れるのかな……)
「……綺麗でしょう? バラ達」
「えっ、はい!」
満足げに笑うほのかに、一瞬邪心を悟られたかと思いひるみながら小枝子は返事を返した。
(……ああ、びっくりした……)
本当に、見とれるほどきれいな花々。
カラフルで、無駄な葉もなく、バランスも取れて。屹度ちゃんとした庭師も雇っているのだろう。それも専属の、ベテランの……。
「ん……ここ、どこだ?」
まだ発音すらはっきりしてない、千鶴の眠そうな声。目をしばしばって、さらに瞼をこすり、ずるずると地べたに座り込む。
「……家?」
「そうですよ」
「何で実家なんだ?」
「おもてなしには、あの館ではなんでしょう。あまりにも、暗い雰囲気を放ちすぎていますし、こちらのほうがシェフもそろっていて、素敵なものをごちそうしてさしあがれるでしょう?」
「姉さんの料理のほうがおいしいのに」
「おほめに頂き光栄す。それでも、貴方に合わせて刺激物などはストックしてありませんから、作れるものには限りがありますもの。どうせならプロに彼女の要望を聞いてから作っていただいたほうがいいでしょう?」
「確かにそれは一理あるな。えーっと……」
「小枝子です」
「小枝子は、何が食べたい?」
無邪気に、千鶴が尋ねた。何でもいいぞ、と付け加えて笑う。
「うーん、久しぶりにケーキとか、パスタとか……ああでも、腹もちするものなら何でもいいです。好き嫌いないので」
「ケーキなら、作り置きが常にあると思うので、ディナーの前に頂きますか? 作法としては邪道かもしれませんが、そういう細かいことは気にせずに、
個室に運びますのでいつもどおりに食べていただいてかまいませんよ」
「一人じゃさみしいだろ、姉さん。三人で、気にせず食べよう? な?」
「はいはい。小枝子さんはそれで問題ないですか?」
「ええ、まあ」
一般人にしか見えない小枝子に気を使ってのことだろう。実際、テーブルマナーなんてものはまったくもって存じていない。
いつも空腹で、かぶり付いたり書き込んだりしているものだから、正直そう告げられてほっとした。
手を洗うボールなんて出てくるんじゃないかと、見まがえていたからだ。服だって、汚れた普段着で、とてもじゃないけど会食などに出れるものではない。
かといって一人きりでは、正直さみしい。はじめて訪れた他人の家で個室に一人で食事はさすがに小枝子も嫌だった。
「そういえば、小枝子さんはご両親に連絡などされなくてよいのですか? もう外もだいぶ……」
「無問題です」
「門限が遅いのですね、わかりました」
本当は、叔母たちが放置しているだけだけど。
成績が良ければそれでいい。兄と仲良しのふりをして、いい家族の中におさまって演技をしていれば、彼女たちは満足してくれる。年相応のお小遣いに雑費程度のものは用意してくれる。
すべては、周りへの「いいおうち」アピールのため。
母を亡くした姉の娘を育ててあげてる、いい家族。小枝子はそう周囲に見せるための、アクセサリーでしかない。
おいしくもない、賞味期限切れ木毛の割引シールの張ったパンが、いつもの小枝子のご飯。ただ横に長いだけで、中に入ってるのはバターだけ。
そんなのは日常茶飯事なのだ。
だから、冗談めかしてケーキをせがんだら、あっさり許可が出て、小枝子は目を丸くした。
血のつながりもない、他人にあっさりケーキ。
叔母は、だれが遊びに来てもお茶ぐらいしか出さなかったし、小枝子の誕生日も切ってある、コンビニに売ってるような安いものを小枝子の分だけ渡してきた。
おめでとう、の言葉もなしに、袋に入れたまま突き出すように渡されたのを覚えている。
それは照れからか、めんどくささからか。
事実を考えたところで、楽しい感情は生まれないだろうし、やめておく。
「ベリータルトはお好きですか?」
「食べたことないのでわかんないです」
「うちのシェフが作るタルトはとても美味しいので、お勧めですよ。なんならお土産にも」
「遠慮しておきます」
高そうな食べ物だと、持ち帰えれない。どこで手に入れただとか、絶対根掘り葉掘り聞かれるだろうし。
「そうですか。残念です……こちらで存分に味わってくださいね」
「……はい」
かいぎょう
千鶴はまだ半分寝ている。中に通されても、そのまま崩れるようにソファに横たわった。
漫画で見るようなお手伝いさんがずらりと左右に並んでるなんてことはなく、ただっ広い部屋には、ほのかと千鶴と小枝子だけ。
そこらじゅうに高価な調度品が置かれて、手入れもしっかりされてはいるから、そういう仕事の人自体は存在するのだろうけれど。
「千鶴さんを、しばらく見ててください」
「え」
「厨房へ行ってまいりますので、その間」
「あー……」
つまりはまってる間、様子を見ていなさいと。
……子守りが必要な年齢でもないだろうに、彼は。
もちろんそんな本心は口には出さないけれど。
ほのかが頭を軽く下げてその場を去って行ったので、テーブルに彼女が置いて行った雑誌を開いて千鶴の横に座った。
(……男向けのファッション雑誌じゃん)
千鶴の? と考えて、即座にそれはありえないと却下する。
今時な、派手目な露出が多いその雑誌のファッションは、彼の服装とは間逆だったからだ。
(ユニセックス系、って感じだしね。この人)
それもレディースよりの。なぜそんな雑誌を小枝子に渡してきたのかは分からない。
単に近場のラックに入っていた中で一番年相応だっただけなのかもしれない。
(……女性向け週刊誌じゃあ、ねえ)
ほかにあるのは、ニュース誌だとか、丸ごと外国の言葉の表紙のなんの雑誌かもわからないものなのだから、消去法でこうなったとしてもおかしくはない。
アイドル記事も乗ってはいるし、暇つぶしと思えば読んでいても苦痛でもない。
(何を得ることもないけれど)
「……んー……」
鳴き声のようなものに驚いて横見ると、勢いよく千鶴が小枝子の腕を引っ張ってきた。
もちろん、そんな力強いものではなかったから、振りほどこうと思えばできたのだけど、明らかに寝ぼけているのでされるがままに引っ張られてみた。
「……ご飯いらない」
(……寝ぼけてる)
すりつくように、腕に頭をペットりくっつけてくるので、反射的に頭をなでた。
あの子のことを、思い出しながら。
一応は開いては男だというのに、警戒心が全くわかないのは、保護者がいざとなれば飛んでくるという保証があるからか、彼の雰囲気ゆえか。
……自分の経験豊富さ、だといやだなあと小枝子は思った。
「小枝子さん」
自分の名前が聞こえたので、顔を上げる。
「どうぞ、タルトです。ゼリーなどもありますので、どうぞ食べたいものがあればおっしゃってください。すぐに手配します。夕食は、何に致しますか?」
「あ、どうも。お気づかいなく……」
「かわいいでしょう、千鶴さんは」
「え」
「安心してください。彼は無知な子ですから。仲良くしてもらえればいいんですが……」
(本当、母親みたいなことを言う人だなあ……)
「え、はい」
「手を差し伸べてくれる人は、少ないですから……今の時代。珍しく、千鶴さんもなついてますし」
(……なつくってその言い用……)
「過保護だと、笑っていただいてもかまいませんよ」
悲しげに、彼女は笑った。小枝子は、ゆっくりとタルトを切って口にひとかけら入れた。甘い果実が口の中で踊る。
小枝子には、その言葉に返すべきセリフが浮かんでこず、相槌の代わりに視線を送った。
ほのかも、察したのか言葉を待たずに続ける。
「……彼は、いわゆる病弱な子なんです。だから、つい……長く生きてもらいたいと……縛り付けても、そうさせたいと……。
今回は、どうも私の誕生日に何かを送りたいと思ってくれたみたいで。こんな、エゴだらけの人間に」
言葉が、ちくちくと胸に突き刺さる。
(……あたしも……どうせ)
生きたいなど、あの子は一言も口にしていないのに。
この世に、縛り付けて――。
自分の意思で、この世界から去ろうとしてああなったのかもしれないのに、自分が一人きりになりたくなくて、見捨てた最低なヤツというレッテルをはられたくなくて、自分勝手なことをしている。
「……小枝子さん?」
「え、っと……おいしいです、タルト」
「それはよかったです。……でも、涙はふきましょう?」
「これは。おいしくて……」
「左様ですか」
綺麗なナプキンを、ほのかは差し出してくる。それを受け取り、小枝子は涙をぬぐった。人の話と自分を重ねてどうする。これは、他人の話だというのに。
全部が全部、同じような思考で人間は動いていない。立場も違うくせに、何を……同じ人間のように、勘違いして。
彼女のように、ヘリを飛ばす力もない。非力な自分。
それが正しい行動かは分からない。どういう経緯で二人がつながっているのかも、知らない。
それでも、裕福な家で、愛情を返そうと思うような環境にいる……。
それに対して自分は、犯罪行為を重ねて、汚い金で命をつないでる。むしろ、縛り付けている……。
タルトの最後のひときれを、飲み込めずに一気に紅茶で飲み込んだ。少し苦みが広がって、反射的に唇をかんだ。
「……ん……甘いにおい」
千鶴の声に、肩が一瞬上がった。
「おはようございます、千鶴さん」
ほのかは何もなかったかのように笑っている。
「なんだ、このにおい」
「千鶴さんもいただきます? タルト」
「……胃に来るからいい。いらない」
「では、ピーチシャーベットでも」
「じゃあそれにする」
「では、頼んできますね。あまり動きまわらずにお待ちくださいね」
「んー……」
まだ、眠気を感じるのか千鶴はふわふわとした声で応答した。
小枝子と目が合うと、彼は微笑を浮かべた。
「おはよう……おいしいか?」
「……うん、まあ。高そうな味だけど、おいしいよ?」
「ならいいんだ。俺の代わりに、どんどん食べてくれ。ここのシェフは、何でも作れるから」
なんだか満足げな表情で千鶴が進めるので、小枝子はありったけの食べたいものを述べ、それをすべて平らげた。
チョコレートパフェに、松坂牛、マツタケご飯にみたらし団子……何でもかんでも、すぐ用意された。
何かを平らげてる間に別の何かがテーブルに置かれた。
それを食べている小枝子を見て、千鶴はただにこにこするだけ。
小枝子の腹も膨れないので、延々とそんな時間が過ぎていく。
もともと胃袋のゴールがない体質で、いくらでも食べようと思えば食べれた。その分貯蓄もできるという人間離れした体質。自覚はあった。
だから、月に一度は食べ放題に入り浸っては、即日その店からもう来ないでくれと泣いてせがまれた。
「おいしいか?」
「え、うん。おいしいけど?」
さっきも聞いたじゃないか。そう思いつつ、小枝子は柏餅をつかんで、口に運んで行く。
「よかった」
「んが?」
「お前が望むなら、こシェフを専属に回していいぞ。本来は本家のここで働いてるんだが、俺たちのところに……。普段は姉さんがやってくれるんだけどな」
「んひゃ??」
千鶴が何を言いたいのか、その全体像が見えない。
シェフを何で小枝子のために異動させなきゃいけないのか。まるで、そこに小枝子が住むか通うかするのなら、わかるけれど。
「安藤小枝子さん。あなたのお家が金銭的にいっぱいいっぱいなのは調べました。なので、貴方を私たちが預かることに決まりました」
何かを運びながら出てきた、階段から降りながらのほのかの声に想わずのどに餅を詰まらせそうになる。
むせる小枝子にあわてて千鶴が@「大丈夫か?」と声をかける。
無事もちを詰まらせずに済み、小枝子は一息ついてお茶を飲んでから尋ねた。
「……どういうことですか?」
「だから、千鶴さんとともに私があなたをお預かりますよ、と」
「え、何で?」
「小枝子さん。あなたは実のお母さんを亡くして、今叔母様のところでどうかして、やりくりしてますよね? それが、私から見ては、放っておけなくて」
(……一応ぼかしてはくれたけど、バレてんじゃん! やばい……やっぱ捕まるの? 少年院だったのココ。いやああああ!!)
頭の中がフル回転してる小枝子に対して、終始ほのかはにこやかだ。
千鶴はどこかわくわくした子供のような眼で、小枝子の反応を待っている。
「ちょっとまってください、同居……??」
「大丈夫です、保護者の私もいますし」
「そういう意味ではなく、たとえ男女じゃなくても出会ってその場ってのは」
「まあ、なんでそうなったかはいずれお話しするとして」
「今はなしてくださいよ……」
納得できる理由を。
「……嫌なのか?」
甘えたような声を、千鶴が出す。
「えっと」
「一緒に暮らすの、楽しいぞ! 絶対楽しい……楽しくするから……駄目か?」
(……千鶴に何かされることはなそうだけどそれよりも、ほのかさんのほうが怖い……)
小枝子の弱みを握って、ゆする気なのだろうか。
これだけたんまり食べて、何もせずに帰るのも気が引ける。
「実はですね……千鶴さんには婚約者がいるんです」
「……はあ」
そりゃあ、これだけのでかい家を持ってれば、そういうたぐいも存在するだろう。
「でも、千鶴さんは結婚する気などない。あちらもない」
「……で」
「ので、お互い結婚したいと思っている相手を連れて着て破たんさせよう、という考えが浮かんだのです、ですから……」
「あたしにその相手役をしろと」
「そういうことです。同居していれば、なのに説得力が増すでしょう? あなたもお得ですし、色々」
色々。
後で、といった後すぐに暴露したこの話はたぶん、軽めのもので、裏には多分もと重たいものが隠れてる気がした。
千鶴のキラキラした機体を含んだ視線。ほのかのこれだけ食べたんだから従いますよね、という威圧感。
……に、小枝子は負けた。
「わかりました、その短期間。お役目はたして見せましょう」
「やったあ」
かわいらしい声ではしゃぐ千鶴を見ると、何が本心かが分からなくなってくる。
「どれぐらいの期間が必要なんですか?」
「彼女だってわかるぐらい、べたべたして、周囲が認知する期間……ですかね?」
「あいまいすぎてわかりません」
そんなの人それぞれじゃないか。籍を入れないまま同居し続ける人だっていまどきたくさんいるわけで。
確かにほのかはしっかり保護者的役目ができそうだし、千鶴に攻撃性は感じられない。叔母の家にいるよりは、幸せな生活ができるだろう。
「あの子のことは……?」
「大丈夫です、私のほうがどうにかします」
ほのかのその言葉に小枝子は迷う。受け入れてしまえば、すぐに楽になれる。
裕福な家で、たっぷりのご飯に、もう売りをする必要などない。一時的であっても、羽休めにはなる。
「あの……子……?」
千鶴が心配そうにつぶやいた。
「大丈夫ですよ、千鶴さん。千鶴さんが不安がるようなことではないですから、ね?」
「そうなのか?」
「別居してるだけです、ねえ、小枝子さん」
「……はい」
そう答えろと、目が言っている。千鶴に心配をかけさせるな、と。
実質ほのかは裕福なのだろう。千鶴だって。
さんざん男に貢がれたせいか、ブランドは分からずともどれぐらいの値段がするかぐらいは、小枝子にはわかるようになっていた。
ほのかの衣服は、どれもが年代物の高級品。アクセサリーなんて、なんからっとかもわからないぐらい、豪勢な宝石を集め上げている。
千鶴は、なんというか箱入りの雰囲気がする。
「学校もすでに手配しました。承諾もそちらのほうも取れました」
「早あ……」
「大丈夫です。私に任せておけばいいんですよ」
自信満々な言葉を発して、先ほど運んできた紙袋から案内書やラ制服などを取り出していく。
(この袋重いっ)
軽々とほのかは運んでいたけれど、両手でも腕が釣る。
一袋でも、小枝子はいっぱいいっぱいだ。体がぐらついて、その場に尻もちをついてしまうほど。
「小枝子さん何遊んでるんですか?」
「遊んでません!」
「ここ、お母様が管理してる学校なんだぞ」
千鶴がのんきそうに言う。
「……え、ここ知ってる」
「でしょうね。この周囲に住んでいれば、名前ぐらいは存じてるでしょう」
有名私立。その一言ではかたずけられない、そんな学園。
色々な科があり、高い学費と比例するぐらいの知識、能力を与えられる。
それゆえに、特別入学時に能力が抜きんでているか、裕福でないと入ることさえできない。
進学率も当然高く、なおかつ制服もかわいいのであこがれの学園として皆が口をそろえる。
その学園―ー津野田学園に小枝子が転入する。
いくらなんでも唐突すぎる展開に、頭がフリーズしそうだ。
確かに千鶴の苗字と学園名は一致する。その管理+有数の経営能力を持つ彼の両親にしてみれば、跡継ぎの彼の婚約相手は選りすぐりであらねばいけない。
きっと学園内でも評判の娘を選び抜いたのだろう。それが、想像せずともわかる。
「ねえ、本当にあたし」
「今からあなたは千鶴さんの彼女です。わかりましたね?」
「決定だな」
ほのかの言葉に、千鶴すら否定しない。それほどまでに、婚約が嫌なのだろうか。
拒否すれば、次にレベルの高い人を回す……なんてことぐらい容易じゃないのか。
「あたし、そんな得意な能力もないんですけど」
「そんなこと知ったこっちゃありません」
「……え、拒否件どころかそれでもがんばりなさいってセリフすらなし? 開き直り? いいのこの展開」
「実力主義でいいのなら、いくらでも金を積んで呼んできますよ、高スペックを国中からね。好きだから、という理由付けが必要なんです今回は。あなたより上の人を見つけたので左様なら、なんて理由じゃいけないんです」
「はあ」
「だからあえてのあなたなんです」
(なんかすごくうれしくないこと言われたーーっ!!)
教科書は山積み。文房具まで用意されていた。
学校用のバッグは本革にしか見えない。コスメポーチと、高そうなスキンケアセットもある。
「グロスの色何色にするか迷って、ベビーピンクとナチュラルオレンジにしてみました」
「……学校管理側が堂々化粧勧めていいんですか」
「いいじゃないですか、グロスぐらい。拭えば取れるんですから」
確かに取れはするけれど。
「髪は染め直し?」
「このままでいきます。別に問題ないんで」
(……前の中学だいぶ言われたけど、成績と色気攻撃で許してもらってたのに、ゆるいなあ……)
男子である千鶴の髪の長さも放置されているのだから、厳しくはないと予想は付いていたけれど。
不良的な長髪ではないし、そもそも立場上特別だろうし……正直ほのかの態度に驚いた。ハンドクリームや薬用関係のものはすべて、しっとりとさっぱりが用意されれていた。
「限定ものなので買ったのはいいんですが色が若すぎたので使ってないコスメも混ぜてあります。思う存分使ってください。それがコスメの本望でしょう」
そう言ってほのかが差し出した大袋には大量のコスメコスメコスメコスメ……。一瞬塗ったらどれぐらいの価値があるのか計算しようとした自分に小枝子は嫌悪感を覚えた。
「ありがとうございます」
「髪飾りも、櫛もほしいものがあればお作りしますし、注文しますよ」
「……そこまでしていただかなくても」
「いーえっ。財布代わりとでも思ってもらって構いません。千鶴さんの願わない結婚は私が嫌なんです!」
(本人の前で堂々と本音言った!!)
話題に出ている本人子と千鶴は、コスメを見て目を輝かせているし。
「小枝子―! これお前に似合いそうだ!」
(いつの間にしたの名前で呼ばれてるの? いやあたしも心の中では呼び捨てにしてたけどっ)
「お前にぴったりの部屋着も作ってやるからな!」
「え」
「だからサイズ測らせろ」
「えええ」
会合
目がマジだ。千鶴に強制的に小枝子を押し倒す力がなくても、少し恐怖心を感じるほどに目が本気だ
。
さすがにほのかがそれを阻止して「私が後で測っておきます」と止めてはくれたけれども。
千鶴はつまらなさそうにストロベリィーティーを飲みだした。不満そうにちょびちょびと、ジュースいっぱいで長時間居座ろうとしている客のごとく。
学園のパンフレットを見れば、学費が当然明記されていて小枝子は寒気を覚えた。
いくら自分が無償で入れるとはいえ、高すぎる。入学するのが怖くなるほどに。
(……でも最近、調子悪いし)
いつ、あの子に何が起こるか分からない。貯金なんて、もうとうに尽きている。
お金があればある程いい。わかっている。それでも、心が揺れる。
周りから、馬鹿に見られてもよかった。白い目で見られても、仕方がないと思っていた。それはあの子のため。
しっかり保証がついて、この身も安全で。勉強にだって、思い切り励めるだろう。
「……あたしでいいんですか」
途中でいらないと言われたらどうしようか。
そこら辺にいる少女のほうがよっぽど、いいのではないか。
こんな穢れきった、つまらない女よりも。純粋に恋や部活に生きる子を選んだほうが、千鶴のためでなのではないのか。
両親もいない。自己紹介につかえる様な特技も趣味もない。
そんなもの、探す余裕もなかった。
「いいんですよ、あなたで」
「……本当に?」
「あなたを選んだのは、千鶴さん本人ですから」
「そんなの気まぐれじゃないですか。具合悪ければ助けるし、その相手が偶然千鶴で」
「いいんです、深く考えなくて。あなたは今を生きれば」
「…………?」
ほのかの低い声がさらに低くなったので、小枝子は口を紡いで彼女の顔を見つめた。無表情なまま遠くを見つめている。
過去を思い出すような、そんな表情で、どこかを見つめている。
それは、小枝子たちとは関係ない世界のように思えた。
「私たちは、きちんとした身元証明もできますから、利用していいんです。こちらだって、あなたのおかげで助かるんですから。お互いさまの、お仕事です」
「俺と一緒じゃ、つまらないか?」
ようやくくまともな言葉で混ざってきた千鶴。
「つまらないなら、たくさん女の子を呼んで楽しくする。……だから」
泣きそうな顔。
「……わかった」
この雰囲気で、承諾しないなんて、無理だった。
自分の体が限界に近いのもわかっていた。
体力面も、精神面も。12歳には、ハードすぎた。いつだって子んしーらーでクマを隠して、小山内肌色をコスメでごまかして。朝は栄養ドリンク飲みなんてこともよくあった。
「小枝子」
「わかったよ」
受け入れるしかない。
目をさまして、小枝子がいなければあの子はどうなるだろう。一人ぼっちの不安さと苦しさは、小枝子が一番わかっている。
同じ思いをさせないためには、この契約を結んだほうがいいだろう。
「おねがいします……二人とも」
「こちらこそ、よろしくおねがいします」
「本当か! 本当なのか!」
喜んで小枝子にじゃれて来ようとする千鶴をつまむようにほのかが止めた。
「千鶴さん落ち着きなさい」
「小枝子、今晩のお祝い何食べたい?」
「え、まだ食べていいの?」
「……え、食べるんですか?」
小枝子とほのか、顔を見つめあう。
「……いらないのか?」
不思議そうな千鶴。
そりゃあ、千鶴はほとんど食べていないだろうけれど。ほのかにいたってはお茶のみだし。
それに対して小枝子は大量に平らげたわけで。いくらオオぐらいでも限度はある。
「いらないなら、今日はここで泊って明日姐さんの家に行く前に食べるか?」
「……そうしとく……」
(というかため口でいいんだろうか……)
なんとなくそうなってはいたけれど、一応二人とも年上だ。本当、一応って感じだけれど、千鶴は。
「一応、千鶴さんのお母さまへの紹介は私からしておきました。顔合わせは後日でお願いしておいたので、気にせずどうぞ。今晩、ここ周辺に出入りするのは私ぐらいですので」
(……この広い所に3人ってのが逆に怖いんだけど)
何か出てきそうだ。
「着替えはストックから入りそうなものを持ってきたので、どうぞ」
紙袋の包みを、また渡される。
「シャワーがいいか? お風呂がいいか?」
「え、じゃあシャワーで」
「温泉もあるんだぞ、ここは。明日の朝でも入ってくといい。気持ちいいだろうし。姐さん、案内してやってくれ」
「はいはい。千鶴さんはよい子で寝てなさいね。お部屋で」
「姉さん、俺さっきまで寝てたんだけど……」
「横になってればあなたなら寝れます。がんばって寝なさい。あなたには夢があるでしょう?」
(……何この会話……)
ふくれっつらでさみしそうな千鶴を放置して、ほのかはずかずか進んでいく。
相手にしてくれないことが分かったからか、すぐに千鶴は二人とは反対方向のほうへと歩いて行った。
暗がりを平気で歩いて行けるのが意外、と思ってしまったのは失礼だろうか。
でも、小枝子の中の千鶴のイメージは弱弱しく人懐っこい子犬のようなものだし、仕方がない。
遠くから何かとぶつかったらしき千鶴の悲鳴も聞こえたが、気にしない。電気をつけないのが悪いのだ。
ほのかについて行きながら、あまりにも長い割には単調な道のりだった紙袋を少し開いてみる。さっぱりとした薄手の長ズボンと、半袖のシャツ。意外と普通だ。色は淡いピンクで、無地。
胸元のポケットに茶色のレースのリボンが三つたてに縫い付けてある程度しか、変わった点はなかった。
「こちらになります」
「うわああ……かわいらしい……」
「でしょう? まるでメリーゴーランドみたいでシャワールームはいろいろなデザインがあるんですが、ここが一番女の子らしいかなあと思い、案内させていただきました」
ミルキーカラー中心の全体に金色ののフレーム。確かにたとえるならメリーゴーランド。石鹸のボトルは香水の容器のようなハートのもの。
「シャンプーなどもいろいろありますからね。化粧水はサンプル品から好きなのを。後日手配します。では、沖が絵になってから連絡用ボタンを押してくださいね」
そう言ってレース生地が敷かれたバスケットを指差してほのかは去って行った。
ざあざあと、小枝子の肩をなでる水音は少しばかり、今までの穢れを落としていくような気がした。
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素材はここでお借りしました。