悲しいお芝居が始まってから数週間がたった。
「お母さん、今日のご飯は? なに? まだお外で遊んじゃダメなの?」
啓人は無邪気に「お母さん」に対して笑う。その視線の先に居るのは小枝子だ。
小枝子は母を演じていた。自ら望んでではない。
これ以上、啓人が壊れてしまうのを見たくなくて、その恐怖に耐えかねて出した結論だった。
そして、ほかにも役者はいた。
「ねえ、お父さん遊んでよー」
「……バタバタ騒ぐと隣の部屋の迷惑だろ? ……オセロでもするか?」
「つまんないよー、あきたあきたぁ」
父役は千鶴。
啓人は、彼を母の新しい恋人で、昔別れた夫だと「思い込んでいる」どう見ても、
そう見えない年齢の二人を、彼は迷いなくそう役者に「選んだ」のだった。ほのかだけは、お手伝いさんのような、
あいまいな新しい位置付けで、誰かの変わり扱いはされなかったけれど代わりに重要視もされなかった。
あえて役名をつけるなら「脇役」だろう。
千鶴が室内に取り付けられた棚から、オセロを取り出してベッドの上の机に乗せる。
「いい子だから、お父さんの言うこと聞くんだぞ? そしたら後でおいしいお菓子、作ってあげるから。アップルパイ、好きだろ?」
「うん! 大好きー!!」
無邪気な笑顔を見ていると、顔は笑っているのに心がどよんでくる。
小枝子は、何度も耐えきれなくて病室を出ては、買い物へ行っていたふりを繰り返した。
事情を曖昧にしか知らない千鶴のほうが適応度は高く、あっさり「父親」の役をこなしていた。
もともと存在しなかったものを演じるのは、いた者のふりをするよりは楽なのかもしれない。
それ以上に、小枝子は自分自体の存在を否定されたような気がして、つらかった。
どうして「お姉ちゃん」と呼んでくれなかったのか。啓人の世界には存在する必要がなかったのだろうか。
考えれば考えるほど泣きたくて口元を押さえる。
「ねえ、お母さん」
「……なあに?」
「ワンパクマン何でやってないの?」
(それは……とっくに最終回を迎えたから)
彼は今を受け入れれてないのだ。
啓人には自分の姿は、あえて見えないようにほのかが工夫した。きっとややこしくなるからと。
鏡は一切なく、彼の周囲には常にカーテンが敷かれている。
それを、彼には日光が体に悪いからとごまかして説明したけれど、不自然なぐらいすんなり受け入れてくれた。
(あたしのことも、すんなりお姉ちゃんって泣きついてほしかったな)
目の前で無邪気に笑いながら千鶴と遊ぶ啓人を見て、小枝子は視線をそらした。
彼の眼には、千鶴はどんな容姿に見えているのだろうか。ありのままだろうか。もしそうなら、もっとつらい。
啓人は、あの日から一度もお姉ちゃんはどこに行ったのとは訪ねてこない。最初からいなかったようにふるまうのだ。
それなのに、千鶴が千鶴として認められているのなら、きっと小枝子は妬んでしまうだろう。
締め切った窓のせいか、息苦しくなる。
「美味しい果物買ってきましたよ」
ほのかが果物かごを抱えて、ゆっくりドアを開けてそちらを見ると、彼女は一瞬目を瞬かせた。
「……小枝子さん……」
(……やばい、たぶん今すごい見られたくない顔してた)
「……そんなに切羽詰まるほどおなか減ってました?」
「え」
「獣のような顔をして……すみません、長らく放置してしまい……ちょっと遠くまで足を運んでいたので。
千鶴さんには一応お菓子を持たせていたんですが……空けた気配すらないですしね」
そう言えば、ほのかが出ていくとき冷蔵庫に何か色々詰め込んでいた気がする。
そして実際飲み物すら口にしていなかった。
啓人と千鶴はたんに存在を忘れていたのだろう。パイを作るとか言っていたあたり、多分。
ほのかがそれらをしまっていた時も、今のようにワイワイ何かやっていたようだったから、聞いてすらいなかったのかもしれない。
「待ってくださいね。このマスカットすごくみずみずしくておいしいんですよ」
「あ、じゃあいただきます」
ある意味胸がいっぱいで、何か食べたいとも思わないけれども、もう午後7時半をとうに過ぎている。
千鶴は学校を数日休んでいるけれど、小枝子はそんな余裕がないのでほのかの迎えが着次第すぐに病院に戻っては、
三人で泊りこんだり、たまに洋館に戻ったりしている。
千鶴は啓人が気がかりなのか、携帯で通販しては何かしらおもちゃを与え、一緒に遊んでいた。
小枝子はゆっくりと、ほのかが運んできた皿にのっているマスカットの粒をちぎり、口に運んだ。
甘いみずみずしい果実が口の中でつぶれて、のどに吸い込まれていく。
愛行
ほのかが二人にも勧めていたけれど、それを無視して小枝子はひたすらその作業を繰り返していた。
なにも考えたくなかったというのもあるけれど、お腹が減っていたし、何より明日も学校と病院を両立しなければと思うと、つい手が進んだ。
「おばあちゃん、お見まいにきたよー」
明るい声が耳に飛んできた。少女の声だ。
「……あれ?」
その声の主は、いつもの4人の中には当然いなかった。
ドアをゆっくりあけた彼女は、戸惑うようなそぶりで4人を見た。
「……ごめんなさい、部屋間違えちゃったみたいです……!」
そう言って、彼女は頭を下げた。
やわかそうな、ふわふわの髪の毛が盛大に揺れた。
じっと小枝子が見つめてみれば、その子はどこか見覚えがあった。
「……りんねちゃん?」
「あ、はい」
「音羽鈴音ちゃんだよね?」
「……そうですが」
年頃も、小枝子の記憶の彼女と一致している。
そして何より本人が認めている。
けれども、不思議な顔をして小枝子を見ているあたり、きっと彼女は小枝子の正体に気が付いていのだろう。
しかたがない、もう長いこと顔を合わせていない。
彼女と遊んでいられたのも、小枝子が5歳のころまでだ。
彼女はそれより2つ下の3歳。
そのころの記憶など、あいまいでも仕方がない。
「ちょっと、ごめん、ついてきて」
そっと小枝子は鈴音に耳打ちした。鈴音は首を縦に振り、頭を軽く下げ病室から離れた。
手荷物の紙袋を抱きかかえながら、心配そうに後ろを眺めて小枝子に続く。
小枝子は、病棟のディールームへ向かっていた。
そこにある無料の飲み物から適当に紅茶を選び、二つテーブルに並べて向かい合って座るよう鈴音に指示した。
鈴音は何事かと、顔をこわばらせこわごわと小枝子を見つめている。
小枝子は口元を緩め、親しげに笑って見せた。
彼女はみたはずだ。啓人の姿を。
カーテンの隙間から見えた、器具や幼げなおもちゃに、お父さんと呼ばれるにはいささか無理のある年頃の千鶴を。それをみて「ああ、ままごとをしているのだろう」なんて好意的に解釈できる人は少ないだろう。
10を数える少年が望んで男同士でままごとなど、きっとしない。
「あの……」
「ごめんね、鈴音ちゃん。お見舞いに来てたのに、無理に」
「いいえ……」
啓人と同じ年のはずの鈴音はえらく低い腰で、か細い声で話した。
昔から、年の割には大人びて、控えめだったけれど、きっとお母さんにしっかり育てられたのだろうと感じさせる。
手はたたむように膝に乗せ、その落ち着きぶりは小学生らしくないとさえ思わせる。
啓人と比べて苦い顔を浮かべかけてしまったけれど、
小枝子は紅茶を流し飲むことでその思考を打ち消して、鈴音ににっこり笑って見せた。
「覚えてるかわかんないけれど、……昔仲良くしてもらった、安藤美緒の娘の小枝子です、おひさしぶり」
「……あ……あの、いつもポニーテールにしてた小枝子お姉さん……?」
意外とすんなり鈴音は小枝子の顔を思い出したらしく、目を軽くぱちぱちさせてじっくりと小枝子を見た。
そしてしばらくして笑顔で「おひさしぶりです」と言った。
「元気だったんですね」
「……あたしはね」
「……あれは、やっぱり啓人君……なんですよね、あの……ベッドの上の」
「うん」
「入院して……」
「まあ、だいぶ調子よくなったから、あんな堂々とした場所に移動してきたけど……昔は病院の奥の奥に、ひっそり管だけでつないで生きていたの。
だから、啓人にはね、ここ7年の記憶がないの。だって、ずっと意識がなかったから」
「……え」
鈴音はそれだけ言って、数分うつむいて無言になった。
無理もない。久しぶりに幼馴染と出会った場所が病棟というだけでも不安になるのに、
そんな思い理由が付いてくればそういう対応になってしまうのもおかしなことではない。
「だから、啓人のことは知らない人として対応してほしいの。あたしのこともあの子はお母さんだと思い込んでる。
受け入れてくれなかったの、あたしを。……多分、鈴音ちゃんが名乗ったところで、ややこしくなるだけだから……」
「そんな、久しぶりにあえたのに……」
「その気持ちは……わかりたくないほどわかる」
「……小枝子さん……」
「ごめんね、こっちの都合で変なお願いして。ごめんね……」
「あ、いえ……」
「あの子が本当の意味で元気になったら……なれたら、また一緒に遊んでほしいな」
小枝子の言葉に、鈴音は無言でほほ笑んで、頷いた。
そのままお茶を2人でお代わりして、たわいのない会話をして別れた。
元気であれば。
……あのようにランドセルを背負っているのかと、小枝子は見えなくなるまで彼女の背中に揺れる赤いそれを見つめていた。
君のいない楽園2
「安藤さん」
「あ、ごめん今日無理」
「そうじゃなくて、宿題のプリント渡そうと思ったんだけど」
反射的に言った言葉に、少し悲しくなりつつ、小枝子はクラスメイトに渡されたプリントをカバンに詰めた。
「やっぱり、忙しいんだね、安藤さん。千鶴さんみたいなお金持ちの人と結婚するとなるといろいろ今から大変だよね」
「けっ……!?」
「え、結婚するんじゃないの?」
いつの間に話が進んでいるのだ。
小枝子と千鶴は名目上付き合ってはいるものの、唇すら合わせていない関係だというのに。
自分でもびっくり、付き合ってもう3週間は経過しているのに、ピュアピュアな関係を続けている。
やっぱり相手のせいだろうか。自分でも信じられないと思う。
「……多分するんじゃない?」
適当に切りかえす。
もう夏休みが近い。そうすればもう学校にしばらく来なくて済む。宿題だってきっと楽なものだろう。
男と触れ合わない毎日にも慣れてきた。嬉しいことだ。
男子も千鶴の相手だということで迫ってくることもない。平和。
男女関係は、あってないような生活。普通の平和な日常。
……学校生活の部分だけを切り抜いて考えれば。
「じゃあ、あたし帰るから。プリントありがとね」
「あ、うん」
ため息をついて教室を後にする。歩きながら千鶴にメールを打った。
(今から帰る、と)
相変わらず、千鶴はあまり学校に顔を出さない。
小枝子がそこまで付き添わなくていいんだよ、といってはみたものの千鶴は少し悲しげに笑って譲ろうとしなかった。
彼なりに、思うところがあるのだろうけれど……
時々啓人が眠っているときに勉強してる様子を見かけるので、学校に行きたくないわけではないのだろう。
やさしげな顔をしてゆっくりと啓人としゃべる千鶴は、やはり自分より年上なのだと小枝子は思った。
普段は意識しない、年の差。
人並みに以上に苦労だけならしてきたかもしれないけれど、普通の生活はきっと千鶴のほうが経験を積んでいるのだろう。
しっかりとした教育も、受けているだろうし。
小枝子のその場しのぎの勉強と、たたきつけの能力とは違うのだ、きっと。
携帯に来た返信メールは簡素なわかったという言葉と、ウサギの絵文字がくっついていた。
嬉しそうに手を万歳してる絵文字。
(……本当どっか普通の男子とずれてる気がする)
良い意味でも悪い意味でも。
家に帰りたい、とも言いださない。小枝子が帰ると言えば病院で待っていてくれる。
そこまでして、気を使う必要などないのに。
(病院嫌いって、ほのかさん言ってたのに)
小枝子の前では、ほとんど笑顔で病室に居る。文句も言わない。
時通り、遠くを見てさみしげな表情を見せるけれど、それぐらいだ。
今日はヘリじゃない。駅前に用事があるから、電車だ。
駅前のファッションビルで毛糸の服を買ってくる。ただそれだけ。
通販でもいいとほのかは言ったけれど、差し出してくるカタログはやっぱり高級なもので、安い携帯サイトでも、
送料をかけるよりは自分で買ってきたほうが安上がりだと思ったのだ。
ファッションビルなんて、久々すぎる。
とはいっても、ゆっくり見ていく余裕などないのだけれど。
そもそもキッズサイズが売っているのかも、小枝子は知らない。
たんにファッションビルというのだから服が売ってるだろうという、そんな考え。駅前なら、荷物を持って歩く距離も少なくて済むし。
駅中には確か試食販売がいっぱいあったはずだし。
ひたすらに小枝子はあるいた。
見なれない町並みを味わうように、視線をふらつかせながら、時たま携帯で現在地を確認した。
制服でうごいるから、変な親父も寄ってこない。
そこで人だかりに出会った。
(……? ……なんかカメラ回ってるけど、撮影かなんかしてる?)
ぼーっとしてると人の波にのまれ、小枝子は大きく転んだ。
立ち上がってみれば、自分がカメラの前に居た。
(……え? なに、どういうこと?)
視線が小枝子に突き刺さる。
空き服を着たきれいな女の子に、反射板を持った人に……後ろのほうではキャーキャーいう声が聞こえる。
「……どけ」
(……え、千鶴!?)
その声は、千鶴の声と瓜二つだった。
あわてて状況を把握する。小枝子は誰かの上に乗っている。そして、その声の主は……。
「……あんた誰よ」
千鶴ではなかった。
「俺が聞きたい」
目の前にあった顔は、見知らぬ男だった。
千鶴とは似ても似つかない、まったくの他人だった。
「大丈夫ですか?」
「え、鈴音ちゃん?」
声をかけ来たのは、鈴音だった。彼女も秋服に身を包んでいた。
(えっと……??)
「なにがどうなってるの?」
「お前がいきなり突っ込んできたんだろ馬鹿が」
「ばっ……!?」
「芽衣さん、人前ですよ」
「……鈴音ちゃん。ああごめん、ちょっと体ジンジンしてイラついて。こいつ重いから」
(芽衣……って……女の子みたいな名前だけど、結構ごついよね、この人……
声は確かに千鶴みたいで女の子みたいだけど……この体の硬さは間違いなく男のそれ)
鈴音に手をさしのばされ、小枝子は芽衣の上から身を退けた。
改めて彼を見る。
長めのゆるいパーマヘアは、派手なオレンジに染められていた。
きりっとした感じの、声には合わない顔立ち。
「なに俺の顔じっと見てるんだよ」
不機嫌そうに芽衣は言った。
「鼻高いなあ、と」
素直に小枝子は答えた
。
「俺に見惚れてたのか、なんだ? ファンか?」
「ファン? あんた有名なの?}
「……お前……知らずにここに集まってきたのかよ」
「そもそもみんなしてごってりした服着て何の撮影してるの? 暑くない?」
「えっと、雑誌の撮影です」
鈴音が言った。
「秋発売のファッション雑誌のな」
芽衣が補足する。
ああ、どおりでと小枝子は納得した。だからみんなそろって暑そうな格好で集まってるのだと。
見渡してみれば顔立ちが整ったスタイルのいい子ばかりだ。
服。
しばらくして、小枝子は自分の目的を思い出す。
「すいませんでした! みなさん。では、あたしは用事あるんで」
「オイ、服汚れてボロボロなんだけど」
芽衣は不満げに舌打ちをする。
「あーもう、買い取りかよ……」
そんな声が、後ろから聞こえた。
本当はきちんとした対応をしたいけれど、早く行かなければ千鶴たちが心配する。
先ほどから携帯を放置したままだ。
案の定大丈夫かというメールが着ていた。
返信もせずに、ファッションビルに入った。
筒状のそのビルには、もうすでに秋服が並んでいる。
夏物はすでにワゴン、セール扱い。やった、と小枝子は数枚適当に手に取りサイズが啓人似合うか考える。
そして、今の毛糸に必要な服はどれだようと悩んだ。
今は、ずっと病院からもらった入院用の服だけれども、彼の心が幼いままならば年齢に見合った服だと、混乱してしまわないだろうか。
そう思うと手に取った今時の小学生に見合った服が、とても頼りないものに見えた。
今の、啓人に何が似合うのだろう。
考え始めると時間が無駄に過ぎていく。
仕方がなしに、無地のYシャツやTシャツ、ホットパンツなどを選んだ。無難。
買い物を終えて、エスカレーターに向かう間に、今どきの女子向けショップを通り過ぎて行った。
本当は、自分で服を選んで友達と一緒にワイワイやりたい。
けれど、まずは啓人。今だって、十分に良い服を着せてもらっているのだから選り好みなんてしてられない。
急ぎ足で駅内に入り、ホームへ向かう。
電車に乗り込み座り込むと、案の定ため息が出た。
わいわいと騒いでいる同世代の生徒たちを見ていると、眼をそらしたくなる。
ひたすら携帯をいじって気を紛らわした。
視線を感じる。どうせ、前の学校の生徒か誰かだろう。無視。
「あのー……」
「…………」
「……鈴音です」
「え?」
名乗り出た声の主に、携帯からようやく顔を上げた。
音羽鈴音がそこに立ってた。私服にランドセル。きっと学校帰りなのだろう。
ふんわりとした髪の毛を二つにくくり、ピンクのリボンシュシュで飾っていた。
「小枝子さん、こんにちは」
「……こんにちは、一人?」
「はい、いつも電車なんです」
「え? 小学校に?」
「私立なんで」
鈴音は少し顔をゆがませ笑う。
「あー……」
「私は、どこでもよかったんですけど……芸能科が充実してるからってお母さんが」
そう語る鈴音の顔色は、あまりよくない。
昨日だって、雑誌の撮影をしていたし、手には紙袋を抱えているし、いろいろ多忙なのだろう。
元々彼女の母親はしつけに厳しいところがあった。
それに対して小枝子の母、割と自由にやらせてくれるタイプだった。
「……努力しなきゃ、芸能人にはなれないって……そればかり言うんです、私は別に興味ないのに。
歌手には、なりたいけれど……別に売れたいとは思わないのに」
「鈴音ちゃん……」
「お母さんは、何度も何度もオーディションを受けてアイドルになった自分にコンプレックスがあるんです……だから、私に小さいころからレッスンばかり……」
愚痴を履ける相手をようやく見つけたかのように、鈴音は次々と不満を述べた。
声に力がない。小枝子の顔色をうかがいながら、ぎゅっと結んだ唇。
彼女が今の生活に疲れているのがはっきりとわかった。
「読者モデルは楽しいです。でも、それ以上に……普通の子から特別視されるのが苦痛なんです、私……」
小枝子の中で過去の自分がフラッシュバックされる。
普通に憧れて、ただひたすら眺めていた日々。
悪い意味で異質だった自分が、すごく嫌だった。
鈴音の場合、浴びせされる視線はあこがれのまなざしかもしれない。
でもそれが負担だという人もいる。
その憧れが、本人の望まないものならば。
「周りには、羨ましい悩みだって言われる、贅沢って笑われると思うと言えなくて……小枝子さんなら、同じ――」
「同じだけど、残念ながら環境は違いすぎるわね……」
「……わかってます。私の発言が小枝子さんにとって、邪魔かもしれないって。
でもやっぱり、私には小枝子さんや、啓人君しか……同じ立場の友達が……いなくて」
「もう、啓人は昔とは違うの……あたしも認めたくないけど」
「なんでですか」
「え?」
「なんで、今を受け入れさせないのが正解なんですか?」
「それは」
とっさには、小枝子には言葉がうまくつなげなかった。
「わたしはまた啓人君たちと一緒におしゃべりしたい……一緒に友達したいです。
他にどんなに友達がいても、代わりの友達にはならないんです。苑子の代わりにも、啓人君がならないのと同じで……」
取り乱す様子はないものの、輪廻の口元はぴくぴくと震えていた。
彼女は泣かないだろう。仕事で表情を作ることには慣れているから。
そういえば、1歳をまたぐ前に、鈴音はすでに赤ちゃんモデルとして雑誌の仕事をこなしていた。
まだ、物心すらつかないのに、すごいものだと今は思う。当時は小枝子も幼かったから、ぼんやりその光景を見ていたけれども。
彼女が載った雑誌を見て、彼女の母は声高にすごいでしょ、と笑っていた。
上品に笑ってはいるのに、高笑いのような印象を受けた。
「それは、わがままですか」
「……ごめん、鈴音ちゃんが正しい」
「じゃあ」
「……それでも、あの子が最悪の事態になることを考えたら、動けないの。
あたしにとって、最後の肉親。啓人がいなくなったら、あたし一人ぼっちなの
……それにあの子の命は一つしかないから、試してみることなんてできない。時間はも出せないから、こうなっちゃったわけで……
同じ理由で、危ない橋は渡りたくないの」
わかって、とはつなげられなかった。
小枝子の中の何かが崩れ落ちそうになっていたから。
今の自分がぎりぎりの状況で保たれているのは、学校の件で自覚したし、なにより、その言葉が自分を正当化する唯一のいいわけだった。
生きてるから、実験できない。試せない。
……その、一度きりしかない時間を、たとえ嘘の記憶のまま生きていくとしても、壊れてしまうよりはましなのではないだろうか。
逃げ?
わかっている。そんな答えなど。
「ごめん、あたし今時間内から」
「啓人君のとこですか?」
「……うん」
「私もついていきます」
「撮影じゃないの?」
小枝子は、そっと鈴音が抱えている紙袋をつついた。
鈴音は渋い顔を一瞬見せて、すぐに表情を戻した。
「いいんです、お母さんへの差し入れみたいなものですから。これは。あとででも、いいんです」
「啓人とは会えないわよ? あったら、きっと啓人は思い出しちゃうし」
啓人は鈴音が大好きだったから。
誰にでも人懐っこい子だったけれど、人一倍鈴音には心を許していて、ことあるごとに抱きついていたから。
はじめて口にした言葉は「りーねた」である。輪廻を意味するらしく彼女を見ると大喜びで連呼していた。
しょっちゅうスーパーボールをプレゼントしていた。
路上のタンポポを頭の上に乗っけて犬のおしっこくさくて泣かれて一緒に泣いていた。
(……絶対、啓人は勘づくと思う)
昔から、そういうものに過敏だったから。
鈴音は鞄からノートを取り出すと、空いた席に座り込んで何かを書きだした。
「これ」
ぐい、と小枝子にそれをつきだす。けいとくんへ、と描かれたそれは、きっと手紙なのだろう。
「……これだけでも、渡してください」
「……鈴音ちゃん……」
「私の親戚のお姉ちゃんが遊びに来るって……そう書きました。私がもうこの周辺に住んでないって書きました。
だから、渡してください。……わたしは、音羽輪廻じゃないふりをしてでも、会いたいです」
「どうしてそんなに」
「わかりませんか」
鈴音の口元がまた、震えている。
「見て見ぬふりは無理なんです……私みたいな小学生が、大きなものを背負える力なんてないって、わかってます。
だけどやっぱり啓人君とお話ししたい。声を交えたい……その気持ちなら、小枝子さんが痛いほどわかってるんじゃないですか」
「!」
それをつつかれてしまうと、返せる言葉がない。
小枝子も同じことをしているのだから。母と、偽って啓人のそばに居るのだから。
鈴音は次の駅で降りて行った。
暫くぼんやり立ちつくした後、小枝子も終点で降りて、病院へ向かった。
次回へ続くよ→
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